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真淵を知ろう

真淵を知ろう【第27回】田安宗武に仕える(1)

真淵は田安宗武に仕える  50歳

延享3年(1746)は、真淵にとって大きな転換の年でした。前述のように、2月に茅場町の居宅を火災焼失しましたが、同じ2月に「御出入扶持五人」の待遇で田安家に勤め始め、9月には『和学御用』を拝命し本格的に宗武に仕えました。この以前から、真淵は荷田在満を通して宗武と面識があり、宗武に頼まれ勧められてかなりの量の仕事をこなしていました。宗武のような身分の高い方の学問にはその方面に優れた侍臣を召し下問するのが常で、和学は荷田在満が勤めていたが、在満は先述した『国歌八論』論議のこともあり退き、真淵を推しました。

真淵武の信任が篤く、55歳で「十人扶持」に加増、更に56歳では「十五人扶持」を頂くようになり、そして、晴れがましいことには、真淵58歳の11月、宗武の四十歳の賀の宴で御衣を賜りました。

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真淵は感動して、和歌を詠みました。

あふひてふ あやのみぞをも 氏人の

         かづかんものと 神やしりかむ

『将軍家の御紋の葵という綾織の御服を、葵を神紋とする賀茂氏の流れを汲む私が肩にかけるとは賀茂大神も御存じあろうか、御存じあるまいと。』 
家康に従って三方原で武功をたてた先祖に思いをはせ、自身は学問の道でこのような光栄に浴することができたことに感激したのです。

この間、真淵は宗武の知遇に応え、下問のままに『延喜式祝詞解』で、古語を釈には五十音韻を委くすべしとして古典を解くのに古語の解明、その原理が五十音図であるとしています。

そして『歌体約言』跋文、『古器考(古典籍の研究)』や『万葉新採百首解』『伊勢物語古意』『源氏物語新釈』などを次々にまとめました。

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2023/08/07 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第26回】本を運べ(下)

火災後8カ月足らずで、加藤枝直をはじめとする友人、門人の援助・協力により以前よりも立派な新居が出来ました。

 

伝えられる当時のあれこれを書く

 

火事と喧嘩は江戸の華

関ケ原の翌年(1601)~大政奉還の267年間に江戸の大火は49回、この間京都は9回、大坂は6回という。大火以外の火事を含めると、1601からの100年間が269回、次の100年間が541回、1801から1867年までが986回。当時の人口は1640年頃が40万、1693(元禄)80万、1721(享保)110万。

江戸時代の三大大火

明暦の大火(1657) 振袖大火 死者数107,000人 1月18日~19日の2日間、江戸の大半が被災、江戸城天守も焼失。
明和の大火(1772) 死者数14,700人 行方不明4,000人 目黒で出火南西風により延焼900町に及ぶ。
文化の大火(1816) 死者1200人 町数530 大名屋敷80 寺社80が焼失  他に1855年の安政の地震火事は死者4,500名以上。
出火原因としては放火が見逃せないという。

 

真淵の火災警戒と「万葉集遠江歌考」

真淵は、火災には警戒心を持っていたのでしょう、その副本を故郷の門人縁者に送っていたようです。遠江で詠まれた歌や、遠江出身の防人の歌、東歌など18首について考証注釈した真淵の万葉研究としては最も古い「万葉集遠江歌考」は、浜松宿の渡辺家(真淵の漢学の師渡辺蒙庵)に送られ同家に所蔵されていました。「真淵没後50年遠忌」の際、自分の家に真淵の自筆原稿があると披露され、高林方朗・石塚龍磨・夏目甕麿等により、真淵の貴重な労作と判り、甕麿が家産を傾けて出版したといわれています。

冬至梅宝暦評判記 真淵の市井における評価の高さを

各種の名物評判記は宝暦から文化の18世紀後半の50年間に多く、学問と文芸が盛んな時代でした。この「冬至梅宝暦評判記」は儒者から相撲取更に遊女にいたる25の諸芸から各2人を取り上げており、歌道の部では、岡部三四こと賀茂真淵と光明寺證道上人。真淵については、“歌道のたて物よいと申”に始まり、“当顔みせ後室万葉午前の役、冠考を出されし所よいと申”そして、クスグリを書いて“しかしまづ類のない仕打、御てがら御てがら”と結んでいます。

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2023/07/07 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第25回】本を運べ(上)

延享3年、真淵50歳の年は、記録すべき年でした。

2月、「御出入扶持5人」で田安家に勤め始めました。

同じ2月29日、江戸に大火があって、真淵の茅場町の家は建てて4年にして類焼焼失しました。
この火事は、29日4時ごろに、築地本願寺脇、武家方から出火、この辺一円、南八丁堀、茅場町、浅草から小塚原まで延焼、翌一日夕七ツ時鎮まりました。

 

本を運べ 県居小「縣居読本」より

夕方から吹き始めた風が、夜になるとますますはげしくなりました。けたたましい半鐘の音に、真淵が雨戸を開けると、空は真っ赤で火の手はみるみる広がってきます。
真淵は、あわてさわぐ門人に「何より先に本を運べ」と命じました。火事で自分の家が焼けると思ったとき、まず頭にうかんだのは本だったのです。間もなく真淵の家は焼け落ちてしまいました。
「他の物には、目もくれなかったそうだ。」「持ち出したのは、本だけだという話だ」。「なんとえらい学者ではないか。」
こんなうわさが、江戸の町々へ伝わったのはそれから間もないころでした。

 

火事のさまを真淵は「賀茂翁家集」に書きました。

二月晦日二十九日、本所と言ふ所に火おこりて家ども多く焼けにけり。昔より、心尽くして考へつつ物多く書き添へたる書どものあれば、これをば蔵にも入れじ、いかでたよりよからんところへ渡しやりてむ。今はとて、逃れ出でなむ時、従者の手ごとに持たせむと構へて、まづその事を取りしたたむるほどに、調度どもは心にも入れず、ただ蔵の戸口にひぢりこ(泥んこ)塗りまかなはせて立ち出でぬ。ほどなく皆煙にこもりければ、源の簡がもとへ行きて夜を明かしぬ。(中略)

 

春の野の 焼け野の雲雀 床をなみ  

        煙のよそに 迷ひてぞ鳴く 

(歌意は、野火に焼けた後の春の野は、雲雀は身を休める場所を失ってしまい野火の名残の煙の外で途方にくれて鳴いている)

 

(中略)今年は、所々に火あるは、盗人のわざも多しとて、からめて考えらるなども言ふ。

田にもあらぬ 千町の家を 焼き捨てて

        つくれる罪の 程ぞ知らねぬ

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2023/06/16 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第24回】『国歌八論』論議

荷田春満の甥の荷田在満(ありまろ)の書いた『国歌八論』は理論的歌論書として評価が高く、ドナルドキーンも高い評価をしているといわれています。

この歌論書をめぐって、田安宗武と賀茂真淵の三者がそれぞれの自説を展開しあいました。

『国歌』とは、和歌のことで、『八論』とは、歌源論・翫歌論・択詞論・避詞論・正過論・宮家論・古楽論・準則論の八つの論のことで、三者は、中世歌学の権威主義や閉鎖性を厳しく批判する点では一致していたが、根本的な相違がありました。

 

在満は「和歌は六芸(注)の類ではないので、本来国の政治に有益なことはなく、日常生活に役立つところがあるわけでない。(注)六芸(りくげい))=中国の周時代、士以上に必修の学芸。礼(作法)楽(音楽) 射(弓術) 御(馬術)書(書道) 数(数学)

 

宗武は、「人の心を和らげるのは歌の道だ。うるわしい歌は人の助けになり、邪悪な歌も戒めになる。つまり、和歌は世を治める上に有益だ」

 

真淵は「理(ことわり)は世に通ずる道理だ。ただ理は理であってもその上に堪えがたい思いを言葉に表すことを「わりなきねがい」(理屈では割りきれない念)と言う」と論を展開し、理性によって律することのできない「わりなきねがい」その理を超えた真情が和歌の本質と主張した。

 

 この「わりなきねがい」という真淵の見方が、後に本居宣長の「もののあわれ」へと継承発展するといわれています。

 三者の違いは、在満の古義学、宗武の朱子学、真淵の徂徠学というそれぞれのもとずく立場の相違によるといわれます。ちなみに、古義学は仁を理想とする実践道義を説き、朱子学は幕藩体制や身分制度を支える思想的支柱として官学化したもので、徂徠学=政治と宗教道徳の分離を進めました。

 この論争は、和歌や文学の本質に触れる論争で、和歌の文学としての地位が示されたと評されたといわれています。

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2023/05/15 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第23回】『国歌八論』論争①

真淵は、五十歳で田安宗武の和学御用に務めるが、その前、和歌の本質をめぐる和歌史上最大の理論的歌論書として評価が高い『国歌八論』論議に係わりました。

宗武は、歌論をまとめ父吉宗に奉ろうとしたとき、相談を受けたのは荷田在満でした。

在満は、有職故実の侍臣として仕えていたが、在満の叔父荷田春満が吉宗に仕えていたこともあって、歌論の識見もあろうと在満に下問があり、在満はやむなく国歌八論を奉りました。

 

 

 

著者

相手

論   点

国歌八論

寛保2年8月

在満

宗武

和歌は非政治的なもので感動をそのまま詠う

国歌八論

 余言

同年9月

(1742)

宗武

在満

人の心を和らげるのが歌の道」として再論を命ず

併せて真淵の意見を徴す

国歌八論

余言拾遺

同年11月

真淵

宗武

 

国歌論

  臆説

延享元年(1744)

真淵

宗武

心に感じたこと(喜び悲しみ)を素直に表すこと

臆説剰言

同年8月 

宗武

真淵

真淵説を批判

再批判を命ず

国歌論

再論

同年

8月以降

在満

宗武

 

歌 論

同年

宗武

在満

再論に反論

再奉答

金吾君書

 

同年

10月

 

真淵

 

宗武

 

わりなきねがい(理屈では割り切れない念)として人間の感性の重要さを示す

歌体約言

延享3年9月1746

宗武

まとめとした。

跋を真淵が書いた。

3者の異同はくっきりとし、一応の終止符を打ったが、その波紋はずっと後世にも及びました。

在満は文学の自律性を守り、『新古今』主義をついに変えず、宗武と対立し身を引き後任に真淵を推挙しました。

真淵は、宗武の知遇を得るとともに、宗武の古代主義・万葉主義の影響を深く受け、真淵の学問の樹立に大きく踏み出しました。

 

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2023/04/10 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第22回】飛躍への途

和歌「年くれて」

四十一歳で江戸に出た真淵は、生活のためにいろいろな辛酸を嘗めてました。

寛保元年(一七四一)真淵四十五歳

年くれて 空には降らぬ 白雪の

  しらずかしらに つもりそめぬる

白髪に生活の苦労が偲ばれるが、この歌が苦悩を感じさせないのは白(しら)雪のしらずとか、かしらとか、頭韻(注)をたのしむ心のゆとりがあるからだろうと評されています。

(注)頭韻=語句の初めに同じ音を持つ語を繰り返し用いる修辞法

 

他に、四十八歳のころの歌に

“都のかたへにすまへど、人なみなみなる身にしもあらねば、春をむかへる業とて、なにごとをも設ず。さるは門さしてなどもあらねば、のどやかにのみもあらず。……”として門松を立てたのだろう

年くれて 松をもたてぬ すみかには

  おのづからなる 春やむかへむ

 

真淵は、充実した人々との交渉により、学問も磨かれ、いよいよ著述にとりかかります。

「万葉集遠江歌考」 真淵四十六歳の冬

 この書の文末に、『此国の歌の万葉に入たるを書出してまいらせよとあるにまかせて 寛保二年冬東のみやこにてしるす 真淵著』とあり、田安宗武に差し出したのではなかろうかとされています。

万葉集の中で、遠江で詠まれた歌や遠江出身の防人の歌、東歌など十八首について考証注解しており、真淵の「万葉」研究としては最も早いものです。十八年後に真淵の代表的著作の『万葉考』が脱稿されます。

地元ゆかりの三首

引馬野に にほふ榛原 入り乱り

  衣にほはせ 旅のしるしに

・あら玉の伎俉(きべ)の林に汝(な)立てて

  行きかつましじ 寝(い)を先立たね

・遠江 引佐細江の 澪標(みおつくし)

   吾を頼めて あさましものを

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2023/03/13 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第21回】実母の死

後の岡部日記

真淵四十九歳、延享二年(一七四五)九月浜松に帰り「後の岡部日記」を著しています。

実母が一月二十三日になくなったが、知らせが届いたのが二月三日で、その知らせの文は、“はやく正月二十三日の朝くち、つねならずとてすこしふし給ひしに、やをらおきて手水めし、人々をよびて、一人をうしろにおきてかかへしめ、仏のかたにむきて、あみだほとけをとなへ給ふこゑ、二こゑ三ゑのうちにねむりたまへばすなはちたえ給ひぬる……”と詳しく述べていました。

真淵は、用事が忙しくてすぐには帰省できず、この三月に江戸で法華八講が催されることでその故実を詳しく調べることになり、“古き書ども取り出て、それに筆くはへなどして…夜昼暇なくて”正月が過ぎてしまった。去年の冬、存命中に帰省しなかったかと、股をつかみ、あしずり(じだんだをふむ)して泣くもあやなき(かいのないこと)わざかなと嘆いています。

九月十日に江戸を発ち帰浜、九月二十六日には五社の遷宮があり、十月十日には杉浦国満の家で歌を詠んでいます。 

そして、真淵は「母の御墓にまかりまうしにまうでて、こころのうちに

なくなくも わかれしときを わかれにて

       わかるゝおやの なきぞかなしき

とおもひつづけらる。いとしも悲しくえ立さるべからねば、やや久しくうづくまりをるを、日くれぬと従者のいふに、かへり見がちにてさりぬ」と哀愁の気に満ちていました。

母の墓は、岡部の家の近くで檀那寺の顕海寺(見海院)の山の上にあったが、今は縣居神社南斜面に移っています。

母の死をいたむ真淵の哀傷歌

今はとも 人を見はてぬ くやしさは

       わが身のつひの 世にも忘れじ

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顕海寺(見海院)

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2023/02/17 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第20回】ふるさと浜松への旅

37歳~40歳の間上京、41歳からは江戸に出た。帰省の紀行文を紹介します。

「旅のなぐさ」

四十歳四月、京都から帰省の際の紀行文。“なぐさ”は、慰さめの意。

久しくもなりにたるにつけて、、都のたれかれいとむつまじくなりにたるにつけて、おもへども猶こひしきものは故郷にぞあなるで始まります。信名・在満など荷田家和歌会で同席した人、そしてやむごとなき御わたりとして、交際があった宮方とか堂上人と記しています。柳瀬方塾が大納言武者小路実蔭の門人であり、冷泉派の門人になったとも伝わり、真淵の学問の流れが想われるとされています。

「旅のなぐさ」は、名所旧跡の考証が主で、地名をきっかけに古典の知識を披瀝していて、真淵がどんな学問をしていたかを知るよい資料になっていると言われています。例えば、山科の御廟野では天智天皇の御陵にふれ、「紹運録」「日本紀」「万葉」が出、相坂山では「万葉」が出て峠の語源を述べ「貫之家集」「古今」を出し、蝉丸の社では「後撰」「宇治拾遺」「無名抄」「清正集」「小町家集」「素性集」が出、比叡山では「懐風藻」「古事記」が出るなどします。

 

「岡部日記」

元文五年、真淵四十四歳の閏七月八日江戸を発ち帰浜し、九月十七日に江戸に戻る旅の紀行文。

此の秋はいざなふ人さへあれば、いでや母をもをがみ、つま子はらからにもあはばやとて、後の七月八日つとめてたちいづと旅の目的を書いています。

土地を歴史と結び付けての旅であり、その学識の豊かさに驚かされると共に、土地への愛着の深さに心打たれると評されています。菊川では「太平記」をしのび、掛川の日坂では「枕草子」を思うように、遠江に入ると、いっそうきめ細かくなり、天の中川(天竜川)を渡り“暮れ過ぎる程岡部の家に着きました。中国の故事倚門之望のようにお母さんは門によりかかって待っていたと書いています。

写真の宇津ノ谷峠は、伊勢物語の業平朝臣東下りの「蔦の細道」の故事です。森暉昌の家で歌を詠んだり、杉浦国頭がこの夏に亡くなっているので妻真崎をお悔やみ訪問し、そして賀茂神社に詣でました。

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2023/01/17 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第19回】入門の人が続く

小野古道が入門 真淵四十二歳の四月

処士生活の不如意の中、門人をとるようになりました。江戸に出て二年目真淵四十二歳の四月、小野古道が最初の門人になりました。その後、武士、儒者、僧侶、町人が相次いで入門しました。

小野古道は、竜洋町川袋の出で、長谷川謙益といって医を業としていたが壮年時に盲目になり鍼術按腹で鳴らした。和学を好み、同郷のよしみで真淵につくようになりました。「家集」もあり、縣門十二大家のひとりで、縣居神社裏山胸像長谷川貞雄も同じ竜洋川袋の神官の出です。

 

立派な家を建てる

四十五歳で、北八丁堀に一家を構え、江戸の生活に馴染んだ真淵は、甘藷先生青木昆陽などの文人と交流を深めました。弟子も増え、来客も増え生活が固まり、真淵四十六歳の二月茅場(かやば)町に新宅を建てました。土地は加藤枝直(えなお)に借り、枝直は大岡越前守配下の与力で、自分の勉強のためと、子千蔭(ちかげ)の教育のため真淵を隣に招くと共にお金も面倒みたようです。加藤千蔭村田春海とともに縣門の双璧、江戸派の中心で、村田春海は、父春道が乾鰯問屋の豪商で神道を伝える人で、真淵は江戸に出た当初止宿していました。

 

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年号 年齢 出来事
元文2 41 江戸に出る
元文3/1738 42 小野古道が門人になる
元文5/1740 44 杉浦国頭没す。7月浜松に帰る
寛保元 45 北八丁堀に家を構える
寛保2 46 茅場町に新居
延享2/1745 49 実母が死。9月浜松に帰る
延享3/1746 50 2月茅場町の家全焼 田安宗武に仕える
10月家が再建

 

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2022/12/09 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第18回】処士生活

春をまつ やどりは人に よる身にも

             つもる年こそ おのが物なれ  

この当時の真淵は、処士(時の支配者に仕えることもない民間人の意)生活を送っていました。

この歌は、“世の人ごとに四十二の歳は慎むべきという歳暮に

隅田川 人やりならぬ もろ舟も くれぬと急ぐ けふのとし波

に続いて詠っています。

真淵四十二歳。暮を急ぐ隅田川の舟は己が姿の象徴であり、「やどりは人による身」と、四十歳を過ぎて、他家に寄宿する身のつらさがにじみでています。

真淵は、神田明神に奉納する神楽図式の序を書いたり、荷田在満の「大嘗会便蒙」の浄書をしたりして生活していました。江戸に出て三年間に少なくとも五回は転居しました。その間、或は食客となり、同宿となり、家庭教師となるなどと辛酸な生活をしており、この世俗な苦労が真淵の詠歌に深みを加えたとされています。

真淵が転々とした止宿先は荷田家のゆかりの家が多かったが、後に縣門を支えた村田春海の父春道にも世話になりました。日本橋小舟町の乾鰯問屋の豪商で神道家です。真淵も春満から伝えられた「斉明紀童謡についての秘伝」を春道に伝えています。こうして教えを受けにくる人も増えてきました。

 

百人一首などの研究会に参加

○百人一首の講会

真淵四一歳の三月に江戸に出、四月には信名家でこの研究会に出席しています。その後、八月の「百人一首評会満也」まで続きました。真淵の「百人一首古説」はこの会の成果です。

○万葉集の講会

翌年の真淵四十二歳の八月から翌年の六月まで研究会に参加していました。後年の真淵の万葉研究の下地が養われたといわれています。

○源氏物語の講会

この会に参加すると共に、四十四歳の正月には歌会を開くようになりました。真淵の精進ぶりが認められたといえるでしょう。

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2022/11/18 真淵を知ろう   bestscore