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真淵を知ろう

真淵を知ろう【第34回】うま酒の歌

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うま酒の歌

美飲(うまら)にを(やら)ふるかね()一杯(ひとつき)二杯(ふたつき)(えら)(えら)掌底(たなそこ)()()ぐるかねや三杯(みつき)四杯(よつき)言直(ことなほ)心直(こころなほ)しもよ五杯(いつつき)六杯(むつき)(あま)()らし(くに)()らすもよ七杯(ななつき)八杯(やつき
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【口語訳】オイシク飲ムコトヨ、一杯二杯ハニコニコト楽シクナリ手ヲ打ツコトダヨ、三杯四杯ハ(ウカレテ)コトバモ心モ純粋にナッタヨ、五杯六杯ハ天モ国モスベテ満足ダヨ、七杯八杯ハ

『記紀』歌謡に近い形で、古代語を巧みに使い、謡いものとして酒興の過程が巧みに詠みこまれるとともに、真淵の古道思想がよく表れています。真淵の酔眼に古代の理想社会が浮かんだことだろうと評されています。真淵の孫弟子高林方朗(みちあきら)が拓本にして分け真淵を顕彰しました。

真淵の長歌は32首

真淵は、『万葉考』巻3の序で、長歌に言及し、古い時代の長歌について「言少なくしてみやびひたぶるにして愛たし、言少なかれど、心通り心ひたぶるなるが憐なるは、高く真なる心より出ればなり」としています。
平安時代以後、ほとんど顧みられなくなっていた長歌は、真淵と栗田土満など縣門の人々によって復活されたといって過言でないとされています。

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2024/03/08 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第33回】真木柱(まきはしら)

古学へのゆるぎない決意
真淵は、59歳の宝暦5年(1755)、古代憧憬の気持ちから、

いでゐ(応接間のような部屋)を古風に造りその新築祝いの歌
“いでゐをいにしへざまにつくりけるからに、九月二六日、人々つどひてほぎ歌よみけるによめる。宝暦五年の秋なり。
飛騨たくみ ほめてつくれる 真木柱
  たてし心は 動かざらまし

これは、けふつどへるはわが古の書の学びの道つたふる人々なれば、かくいへり”

門人を前に『万葉』研究の成果を踏まえ、真淵のゆるぎない決意、『万葉集』に回帰する「古ぶり」の志を高らかに詠いあげました。
『あの飛騨の大工が寿いで造り、真木柱を立てたように、古学に立てた心は動かないだろう』ということで、新築祝いの歌であり、建物がしっかり建ったことを詠っているが、真木柱建てしまでは序詞で、真木柱のように古学に立てた心は動かないだろうが真意であろうとされています。 
 なお、万葉集には、「飛騨匠」「真木柱」の歌が多く、飛騨匠の元祖とされる止利仏師、左甚五郎などが知られています。

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国学の四大人と歌
幕末、平田派が国学の主流になり、国学四大人観が定まり、四大人肖像が描かれ、木版刷りが広まりました。
荷田春満 踏みわけよ 倭にはあらぬ 漢鳥(からとり)の 
           跡を見るのみ 人の道かは
賀茂真淵 飛騨たくみ ほめてつくれる 真木柱
           たてし心は 動かざらまし
本居宣長 師木島(しきしま)の 倭心を 人とはば 
           朝日ににほふ 山櫻花
平田篤胤 雲となり あるは雨とも ふりしきて
           神代の道に 身をやつくさむ  

 

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2024/02/08 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第32回】真淵は発展型の人

真淵の学問が、毎十代を区画として発展していることを指摘して『真淵は発展型の人間であった』と評されています。

1737

元文2年

41歳

江戸に出る

1742

寛保2年

46歳

茅場町に新居 冬「遠江歌考」

1746

1747

延享3年

延享4年

50歳

51歳

茅場町の家大火により焼失。 同月 田安宗武に仕え「和学御用」を拝命 5人扶持を賜う

1752

宝暦2年

56歳

15人扶持に加増

1754

宝暦4年

58歳

宗武40歳の賀に御衣を賜わる

1755

 

宝暦5年

59歳

 

9月 自宅を古風に造り、「真木柱」を詠む

この頃 長歌「うま酒」詠む

1756

宝暦6年

60歳

「うらうら桜」を詠む

1757

宝暦7年

61歳

「冠辞考」成る 

「語意考」成稿か

1760

宝暦10年

64歳

11月隠居 隠居料5人扶持

1763

宝暦13年

67歳

2月 大和への旅に 

5月 松坂で本居宣長に会う

・田安宗武に仕えて以降、主君宗武の「万葉」主義の影響を受けて真淵は、万葉研究を深めました。
・万葉研究者は、「宝暦3~4年が、真淵学における万葉主義形成の時期である」と考えられています。
・真淵は、栗田土満あての書簡で『古事記万葉集其他宣明祝詞をよく心得自己に古歌を書て後、其古言を知て紀をも調べしとおもう故に、真淵40年来此事に心を入漸六旬以後意を得たり』とあり、六旬は60年の意で、真淵は60歳ごろ学問の確立を意識したとされています。

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2024/01/10 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第31回】田安宗武に仕える(5)

著述「古器考」「万葉解」「万葉新採百首解」 (下)

真淵は、延享3年(1746)50歳の年に、田安宗武の「和学御用」として仕え、多くの研究に励むとともに著述も多く残っています。

「古器考」真淵53歳の正月2日、「古器考」を宗武に奉る。八足机、高机、台盤等を「江家次第」「栄花物語」などにより考証。 「江家次第」(ごうけしだい。平安後期の有職故実書、著者大江匡房、全21巻)。「栄花物語」平安時代の歴史物語、女性の手による編年体物語風史書 全40巻。後の古冠考」(1760)や「かさねのいろあひ」などと同じ有職関係の書。

「万葉解」真淵53歳の書。“序”と“通釈並釈例”とから成り、万葉の名義・作者・時代・部類と書く。「万葉を読むには、今の点本で意を求めず、五行(タビ)よむべし」と精細な読み方があり、方言俗語との関係に注意を払ったり、「今本に錯乱誤字多し」とし、後の「万葉集大考」に連なっている。そして、「古語を解には五十音を委しくすべし」と、約言・延言・転通音・清濁・音便など語学のことも詳しく書いている。

「万葉新採百首解」真淵56歳の冬と岡部譲が推算。“小次郎様当年御八歳に被為成候”とある。小次郎は宗武の若君。この本は、万葉集の秀歌、短歌だけを百首選び、原文・読み・評釈を並べている。宗武の命によったもので古代思想が強くなっている。殊に“付て記す”には、古道論とでも言うべきものがあり、万葉主義の立場が明らかで、のちに古道入門のテキストにされた。

真淵の書風は若君や姫君のお習字のお手本を書くように筆跡も見事で、後に平田篤胤は「古へ人の心になりもて行て、其の心より物かきもし給ひし…」とし、「王義之の書風に似る」と。

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2023/12/11 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第30回】田安宗武に仕える(4)

延喜(えんぎ)式祝詞解 等の著述(上)

真淵は宗武の下問のままに『延喜式祝詞解』(50歳)・『歌体約言』跋文(50歳)・『古器考』(53歳)・『万葉新採用百首解』(56歳)・『伊勢物語古意』(57歳)『源氏物語新釈』(62歳)などを次々にまとめました。

延喜式は、平安時代の法令集で全50巻。醍醐天皇の命により905年に編集に着手、927年に完成しました。

『延喜式祝詞解』5巻は、延亮3年(1746)真淵50歳の9月に完成しました。そのにあるように、靱負(ゆきへ)君(宗武)の命によるものでした。

【祈年祭(としごひのまつり)】とか【春日祭】等の祝詞の注解をしたもので、祝詞は、体言や語幹などを大きな漢字で表し語尾や助詞・助動詞は小さな漢字で右側に寄せて万葉仮名書きしています。この序文を真淵が書いていますが、田安家和学御用という輝かしい任務を遂行しようとする張り詰めた気持ちが行間にあふれています。とともに、真淵は「祝詞」を読むだけでなく、「祝詞」を書く力も示そうとしています。真淵は、「祝詞」を古代を知るもののためという内容的にとらえるだけでなしに、「祝詞」を古い文体の見本として、文章史上の関心でもとらえていました。

の次の付記では、“余が先師荷田大人は国朝の学の大家”だが、“学は天下の学、区々として家伝を唱る事は為ならず”と真淵は自己の学説の自立を宣言しており、事実、「祝詞」の研究は真淵をもって始めとされています。

真淵は、「古史を引に古事記を先とし、日本紀を次とす。古事記は上古質直の国史なり。上古の風を見、古語を知、古文を察するに及もの無ればなり」とし、荷田春満的神学から脱することになり、更には、杉浦国頭が「書紀」を遠州一円の神官に講じ、同信的結合のきずなとしている杉浦家の学門からも離れるようになりました。

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2023/11/24 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第29回】田安宗武に仕える(3)

名君・田安宗武②

父吉宗は、享保の治を進め幕府中興の英主、宗武の子 松平定信は寛政の改革を推進した青年宰相、宗武自身も英明で文武両道を兼備した立派な人でした。

 

書(ふみ)もよまであそびわたるは網の中にあつまる魚(いお)の楽しむがごと
 (読書もしないで遊び続けるのは、ちょうど身の危険が迫るのも知らないで網の中に集まる魚が楽しんでいるようなものだ)と勧学の心を詠んだり

 

天地(あめつち)の恵にあるゝ人なれば天の命のまにまにをへや
(天地の恩恵によってこの世に生を受けた人だから、やはり天命のままに一生を終わりたいものだ)と詠み、その反面

 

ふたつなきふじの高根のあやしかも甲斐にも有(あり)とふ駿河にもありとふ
と、大らかなとぼけた奇抜な歌も詠み。さらに  

  

酒のみて見ればこそあれ此夕(このゆうべ)往来(ゆきこ)ふ人は
(酒を飲みながら見ている分には風流なものだが、この夕方雪を踏み分けて行ったり来たり仕事をしている人は、そうはいかないだろう)。
思いやりのあり心の行き届いた人だったのだろうと評されています。

 

宗武のような身分の高い方が学問するには、優れた侍臣を召し、下問するのが一般的でした。和学については荷田在満が勤めていたが、在満が『大嘗会便蒙』を百部ほど摺ったことが公家に問題にされ閉門を仰せつかりました。更に、元文3年(1738)本会報29号で既述の「国歌八論」論争で、在満は文学の自律性を守り、『新古今』主義を変えず、真淵を後任として薦めて自らは身を退きました。真淵50歳の延享3年(1746)2月に宗武の和学御用を承り、御出入扶持(五人)を賜わりました。

 

田安家の和学御用を務めるようになっても、従前通り門弟をとることは許される程に好遇され、その間の多忙をなす事の多かる時はいとまある人ばかりこそうらやましけれと詠んでいます。

 

そして、出仕後5年目に御目見え十人扶持、更に翌年56歳の7月には、大番格奥勤を仰せつかり、十五人扶持を頂くようになりました。

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2023/10/05 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第28回】田安宗武に仕える(2)

御三卿 田安宗武

八代将軍徳川吉宗の次男、真淵より18歳歳下の正徳5年(1715)生まれで、徳川御三家田安家の祖。松平定信の父。幼名小次郎、享保14年(1729)元服宗武を名乗り、同16年田安門内に邸を賜わり以後田安宗武と称す。明和8年(1771)死去。

少年期より和歌に親しみ、荷田在満(ありまろ)に、古学・歌道を学びました。寛保2年(1742)在満に歌道書の執筆を依頼し、『国歌八論』を著して応えたが、宗武は『国歌八論余言』を書いて反論、後に賀茂真淵も加わり3年にわたり続きました。(真淵を知ろう第23回に既述)。その頃、在満の別の著作が幕府の忌避に触れたこともあって在満は田安家の仕官をやめ、賀茂真淵を推薦しました。

宗武の詠風は、はじめ堂上風の伝統主義的でしたが、次第に万葉集の影響を深く受け、清新な発想を古風な調べにのせた独自の歌風を築きました。死後、侍臣らが編纂した家集『天降言(あもりごと)』に和歌300余首が収められています。また、これに紀行文や和歌を補った『悠然院様御詠歌』があり、歌論には『国歌八論余言』『歌体約言』などがあります。儒学のほか、古楽・有職故実などにも精通し、『服飾管見』『楽曲考』など多数の著作があります。

窪田空穂は『近世和歌研究』でこう書いています。「彼は老いるまで少年の持つ驚異の情を失わなかった。彼は、平生見なれていたと思われるものを初めて見るもののように見ることが出来た。(中略)生まれ来った歌人だと思わせる。驚異の情を彼程に持っているのは中世の西行法師くらいで…(後略)」

昼行きし 川にしあれど 夕されば

  静けくゆたに 新しきごと

秋深き 龍田の川は かくぞあらむ

 入日さす雲の うつる川づら

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田安門 

北の丸地区北側の靖国通りに面する。
現在の門は万治元年(1658)に再建された。
国の重要文化財。

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2023/09/06 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第27回】田安宗武に仕える(1)

真淵は田安宗武に仕える  50歳

延享3年(1746)は、真淵にとって大きな転換の年でした。前述のように、2月に茅場町の居宅を火災焼失しましたが、同じ2月に「御出入扶持五人」の待遇で田安家に勤め始め、9月には『和学御用』を拝命し本格的に宗武に仕えました。この以前から、真淵は荷田在満を通して宗武と面識があり、宗武に頼まれ勧められてかなりの量の仕事をこなしていました。宗武のような身分の高い方の学問にはその方面に優れた侍臣を召し下問するのが常で、和学は荷田在満が勤めていたが、在満は先述した『国歌八論』論議のこともあり退き、真淵を推しました。

真淵武の信任が篤く、55歳で「十人扶持」に加増、更に56歳では「十五人扶持」を頂くようになり、そして、晴れがましいことには、真淵58歳の11月、宗武の四十歳の賀の宴で御衣を賜りました。

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真淵は感動して、和歌を詠みました。

あふひてふ あやのみぞをも 氏人の

         かづかんものと 神やしりかむ

『将軍家の御紋の葵という綾織の御服を、葵を神紋とする賀茂氏の流れを汲む私が肩にかけるとは賀茂大神も御存じあろうか、御存じあるまいと。』 
家康に従って三方原で武功をたてた先祖に思いをはせ、自身は学問の道でこのような光栄に浴することができたことに感激したのです。

この間、真淵は宗武の知遇に応え、下問のままに『延喜式祝詞解』で、古語を釈には五十音韻を委くすべしとして古典を解くのに古語の解明、その原理が五十音図であるとしています。

そして『歌体約言』跋文、『古器考(古典籍の研究)』や『万葉新採百首解』『伊勢物語古意』『源氏物語新釈』などを次々にまとめました。

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2023/08/07 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第26回】本を運べ(下)

火災後8カ月足らずで、加藤枝直をはじめとする友人、門人の援助・協力により以前よりも立派な新居が出来ました。

 

伝えられる当時のあれこれを書く

 

火事と喧嘩は江戸の華

関ケ原の翌年(1601)~大政奉還の267年間に江戸の大火は49回、この間京都は9回、大坂は6回という。大火以外の火事を含めると、1601からの100年間が269回、次の100年間が541回、1801から1867年までが986回。当時の人口は1640年頃が40万、1693(元禄)80万、1721(享保)110万。

江戸時代の三大大火

明暦の大火(1657) 振袖大火 死者数107,000人 1月18日~19日の2日間、江戸の大半が被災、江戸城天守も焼失。
明和の大火(1772) 死者数14,700人 行方不明4,000人 目黒で出火南西風により延焼900町に及ぶ。
文化の大火(1816) 死者1200人 町数530 大名屋敷80 寺社80が焼失  他に1855年の安政の地震火事は死者4,500名以上。
出火原因としては放火が見逃せないという。

 

真淵の火災警戒と「万葉集遠江歌考」

真淵は、火災には警戒心を持っていたのでしょう、その副本を故郷の門人縁者に送っていたようです。遠江で詠まれた歌や、遠江出身の防人の歌、東歌など18首について考証注釈した真淵の万葉研究としては最も古い「万葉集遠江歌考」は、浜松宿の渡辺家(真淵の漢学の師渡辺蒙庵)に送られ同家に所蔵されていました。「真淵没後50年遠忌」の際、自分の家に真淵の自筆原稿があると披露され、高林方朗・石塚龍磨・夏目甕麿等により、真淵の貴重な労作と判り、甕麿が家産を傾けて出版したといわれています。

冬至梅宝暦評判記 真淵の市井における評価の高さを

各種の名物評判記は宝暦から文化の18世紀後半の50年間に多く、学問と文芸が盛んな時代でした。この「冬至梅宝暦評判記」は儒者から相撲取更に遊女にいたる25の諸芸から各2人を取り上げており、歌道の部では、岡部三四こと賀茂真淵と光明寺證道上人。真淵については、“歌道のたて物よいと申”に始まり、“当顔みせ後室万葉午前の役、冠考を出されし所よいと申”そして、クスグリを書いて“しかしまづ類のない仕打、御てがら御てがら”と結んでいます。

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2023/07/07 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第25回】本を運べ(上)

延享3年、真淵50歳の年は、記録すべき年でした。

2月、「御出入扶持5人」で田安家に勤め始めました。

同じ2月29日、江戸に大火があって、真淵の茅場町の家は建てて4年にして類焼焼失しました。
この火事は、29日4時ごろに、築地本願寺脇、武家方から出火、この辺一円、南八丁堀、茅場町、浅草から小塚原まで延焼、翌一日夕七ツ時鎮まりました。

 

本を運べ 県居小「縣居読本」より

夕方から吹き始めた風が、夜になるとますますはげしくなりました。けたたましい半鐘の音に、真淵が雨戸を開けると、空は真っ赤で火の手はみるみる広がってきます。
真淵は、あわてさわぐ門人に「何より先に本を運べ」と命じました。火事で自分の家が焼けると思ったとき、まず頭にうかんだのは本だったのです。間もなく真淵の家は焼け落ちてしまいました。
「他の物には、目もくれなかったそうだ。」「持ち出したのは、本だけだという話だ」。「なんとえらい学者ではないか。」
こんなうわさが、江戸の町々へ伝わったのはそれから間もないころでした。

 

火事のさまを真淵は「賀茂翁家集」に書きました。

二月晦日二十九日、本所と言ふ所に火おこりて家ども多く焼けにけり。昔より、心尽くして考へつつ物多く書き添へたる書どものあれば、これをば蔵にも入れじ、いかでたよりよからんところへ渡しやりてむ。今はとて、逃れ出でなむ時、従者の手ごとに持たせむと構へて、まづその事を取りしたたむるほどに、調度どもは心にも入れず、ただ蔵の戸口にひぢりこ(泥んこ)塗りまかなはせて立ち出でぬ。ほどなく皆煙にこもりければ、源の簡がもとへ行きて夜を明かしぬ。(中略)

 

春の野の 焼け野の雲雀 床をなみ  

        煙のよそに 迷ひてぞ鳴く 

(歌意は、野火に焼けた後の春の野は、雲雀は身を休める場所を失ってしまい野火の名残の煙の外で途方にくれて鳴いている)

 

(中略)今年は、所々に火あるは、盗人のわざも多しとて、からめて考えらるなども言ふ。

田にもあらぬ 千町の家を 焼き捨てて

        つくれる罪の 程ぞ知らねぬ

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2023/06/16 真淵を知ろう   bestscore