真淵を知ろう【第25回】本を運べ(上)
延享3年、真淵50歳の年は、記録すべき年でした。
2月、「御出入扶持5人」で田安家に勤め始めました。
同じ2月29日、江戸に大火があって、真淵の茅場町の家は建てて4年にして類焼焼失しました。
この火事は、29日4時ごろに、築地本願寺脇、武家方から出火、この辺一円、南八丁堀、茅場町、浅草から小塚原まで延焼、翌一日夕七ツ時鎮まりました。
本を運べ 県居小「縣居読本」より
夕方から吹き始めた風が、夜になるとますますはげしくなりました。けたたましい半鐘の音に、真淵が雨戸を開けると、空は真っ赤で火の手はみるみる広がってきます。
真淵は、あわてさわぐ門人に「何より先に本を運べ」と命じました。火事で自分の家が焼けると思ったとき、まず頭にうかんだのは本だったのです。間もなく真淵の家は焼け落ちてしまいました。
「他の物には、目もくれなかったそうだ。」「持ち出したのは、本だけだという話だ」。「なんとえらい学者ではないか。」
こんなうわさが、江戸の町々へ伝わったのはそれから間もないころでした。
火事のさまを真淵は「賀茂翁家集」に書きました。
二月晦日二十九日、本所と言ふ所に火おこりて家ども多く焼けにけり。昔より、心尽くして考へつつ物多く書き添へたる書どものあれば、これをば蔵にも入れじ、いかでたよりよからんところへ渡しやりてむ。今はとて、逃れ出でなむ時、従者の手ごとに持たせむと構へて、まづその事を取りしたたむるほどに、調度どもは心にも入れず、ただ蔵の戸口にひぢりこ(泥んこ)塗りまかなはせて立ち出でぬ。ほどなく皆煙にこもりければ、源の簡がもとへ行きて夜を明かしぬ。(中略)
春の野の 焼け野の雲雀 床をなみ
煙のよそに 迷ひてぞ鳴く
(歌意は、野火に焼けた後の春の野は、雲雀は身を休める場所を失ってしまい野火の名残の煙の外で途方にくれて鳴いている)
(中略)今年は、所々に火あるは、盗人のわざも多しとて、からめて考えらるなども言ふ。
田にもあらぬ 千町の家を 焼き捨てて
つくれる罪の 程ぞ知らねぬ