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真淵を知ろう

真淵を知ろう【第18回】処士生活

春をまつ やどりは人に よる身にも

             つもる年こそ おのが物なれ  

この当時の真淵は、処士(時の支配者に仕えることもない民間人の意)生活を送っていました。

この歌は、“世の人ごとに四十二の歳は慎むべきという歳暮に

隅田川 人やりならぬ もろ舟も くれぬと急ぐ けふのとし波

に続いて詠っています。

真淵四十二歳。暮を急ぐ隅田川の舟は己が姿の象徴であり、「やどりは人による身」と、四十歳を過ぎて、他家に寄宿する身のつらさがにじみでています。

真淵は、神田明神に奉納する神楽図式の序を書いたり、荷田在満の「大嘗会便蒙」の浄書をしたりして生活していました。江戸に出て三年間に少なくとも五回は転居しました。その間、或は食客となり、同宿となり、家庭教師となるなどと辛酸な生活をしており、この世俗な苦労が真淵の詠歌に深みを加えたとされています。

真淵が転々とした止宿先は荷田家のゆかりの家が多かったが、後に縣門を支えた村田春海の父春道にも世話になりました。日本橋小舟町の乾鰯問屋の豪商で神道家です。真淵も春満から伝えられた「斉明紀童謡についての秘伝」を春道に伝えています。こうして教えを受けにくる人も増えてきました。

 

百人一首などの研究会に参加

○百人一首の講会

真淵四一歳の三月に江戸に出、四月には信名家でこの研究会に出席しています。その後、八月の「百人一首評会満也」まで続きました。真淵の「百人一首古説」はこの会の成果です。

○万葉集の講会

翌年の真淵四十二歳の八月から翌年の六月まで研究会に参加していました。後年の真淵の万葉研究の下地が養われたといわれています。

○源氏物語の講会

この会に参加すると共に、四十四歳の正月には歌会を開くようになりました。真淵の精進ぶりが認められたといえるでしょう。

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2022/11/18 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第17回】江戸に住む

江戸に出た真淵は、荷田春満の弟信名(のぶな)宅に落ち着き、春満の養子在満(ありまろ)と生活を始め、その後神田明神の神主芝崎好高などの家に寄寓しながら学問に専念しました。

 

国学発祥の地

今 東光   撰文

荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真淵もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽痺し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年 門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は賀茂真淵 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して以て後学の為に伝ふ

 

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「国学発祥之地」碑

神田明神境内にある。荷田春満が江戸において初めて国学の講義をした。

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2022/10/07 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第16回】江戸に出る

四十一歳三月江戸に出る

真淵の学問的成長は、杉浦国頭や森暉昌といった地元の人たちの学識を越すようになりました。
そして、養子先の梅谷家とは気まずいなかにも嗣子真滋が成長し、“家”への責任を果たしたことから、年老いた母のことは気になるが、江戸に出て古学の名を挙げようとしました。

○杉浦国頭、森暉昌等ゆかりの人たちの支援があった。
○将軍家にかかわりを持ちたい。三方原の戦いで大きな勲功を挙げた先祖のように、また吉宗将軍の幕臣だった師の荷田春満のように。
○江戸には知り合いがいる。郷里浜松の杉浦家和歌会に参加していた穂積通泰は、江戸に出て日本橋通新石町の名主(注)になって経済的に富み、風雅を好む人で親しかった。
(注)名主=江戸時代、住民の有力者中その地域の行政を任された代表者。西日本は庄屋。
○伏見で親しくし、今の荷田の学統をになう春満の弟荷田信名(のぶな)や春満の甥の在満(ありまろ)がいた。

 

真淵が江戸に発つ際の逸話「浜松市史」

真淵が江戸に発つに当り、吉田某に「きっと三間棒の肩輿に乗るほど出世してみせるぞ。もし、そうでなかったら二度と浜松には戻らない」と、強い決意を告げた。吉田某は「人生はそう甘くない。乗るどころか、三間棒の肩輿をかついで帰るようなはめにならないように」と諭されとある。

江戸に出た真淵は、まず荷田信名宅に落ち着き、在満と共に生活を始めました。その後、神田、上総、日本橋松島町さらに日本橋小舟町の海産問屋村田春道(村田春海の父)宅などと三年間に五回食客・同宿・家庭教師として転々としました。
こうした中で、二年目に縣門十二大家のひとりとされる小野古道が門人となり、四十六歳で茅場町に家を建てました。

人生四十歳、五十歳の時代、正にやらまいかと言えよう。

 

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2022/09/21 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第15回】荷田春満と浜松国学

荷田春満(かだのあずままろ)

寛文3年(1669)~元文元年(1736)

江戸に出た春満は、和学者として和歌を教え「万葉」などを講じていました。その一方で家伝の神道や神事法式を教授し神道者としても名が通るようになっていました。京都に帰った正徳3年(1713)からの10年間ほどは、東往西帰という多忙な日々でこの期に浜松とのゆかりが出来ました。
社殿修造のために江戸に出ていた諏訪神社神職杉浦国頭は、元禄16年(1703)に春満に入門、翌年には五社神社神職森暉昌が入門しました。春満は、杉浦国頭の人柄を見込んで姪の雅子(真崎)を嫁がせました。真崎15歳で杉浦国頭の妻となり、18歳の頃から11歳の賀茂真淵の手習いの師となりました。
国頭、真崎を主とした「杉浦家和歌会」が行われました。名を連ねた人は、全部で70余名、和歌総数は2985首を数えました。こうして、詠歌・国学が盛んとなり遠江の文化環境が高まり、国頭は浜松国学の祖とされました。
春満は、64歳の元文元年7月2日に亡くなりました。浜松では8月17日に杉浦国頭の邸で春満の霊祭を行いました。更に、10月13日には柳瀬方塾邸にて百日祭と歌会が催され、帰省していた真淵も参加し、二首を詠みました。歌会は、春満の一門が中心となって営まれました。春満が浜松でよく慕われていたことが想像されます。


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春満先生霊祀詠対月忍昔
          和歌
   従五位下藤原国頭
 矩茂播れて今はた しのふむかし見し月 のみやこのあきのお 毛舸礙

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2022/08/16 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第14回】京都で学ぶ(下) 荷田春満

荷田春満(かたのあずままろ)

真淵は37歳、春満を慕って上京しました。春満は漢学だけが盛んであった世の中を悲しんで、

踏みわけよ 倭(やまと)にはあらぬ 漢鳥(からとり)の
   跡を見るのみ  人の道かは

と詠み国学を大事にしました。

春満は、京都伏見稲荷神社の神職羽倉信詮の次男。羽倉の称は、【往昔神鳥と化し、その鳥の羽を象り…】とあり、神鳥…は真淵の八咫烏(賀茂神社の祭神)と思い合わされます。

元禄13年(1700)江戸にて、武士たちに歌学や神道の教授を行いました。享保8年(1723)将軍吉宗に招かれ幕臣になり4年間仕え、享保13年著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を幕府に献じて、吉宗将軍に国学の学校建設の必要性を訴えました。同年家督を養子の荷田在満(ありまろ)に譲り元文元年67歳で死去しました。

 

伏見稲荷大社に隣接の東丸(あずままろ)神社

明治16年正四位の贈位を祝して創建。「学問向上」「受験合格」の神として尊崇される春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、古典・国史を通して古道の解明を試み、万葉集・日本書紀・古事記等の研究の基礎を築きました。

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国学発祥の地

神田明神の境内にあります。春満が江戸に出て、初めて国学の教場を開いた場所です。碑は今東光の撰。一説では元禄赤穂事件は、春満と大石内蔵助が旧知の友人で、その情報により討入り決行日が決められたとされます。

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2022/07/06 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第13回】京都で学ぶ(上)

三十七歳(享保一八年)から四十歳(元文元年)
京都伏見で学ぶ

この時期は真淵にとって、荷田家の人々との交わりを通じ、自分を鍛え、頭角を現わし荷田春満の期待に応えて春満の学問の大成にいそしんだ貴重な期間でした。

当時の春満は、七年ほど前から胸痛を煩い、三年前からは中風症にも罹り将軍吉宗から烏犀円(うさいえん)という名薬を下賜されるほどの病状でした。 春満は

春までの 命のほども しらぬ身に
うれしく雪の 花を見るかな

と詠んで真淵の遊学に期待を寄せたようです。

 

入門早々「斎明紀童謡」の秘伝を伝授される

斎明紀童謡とは日本書紀斎明天皇の条に出る随一の難訓歌とされるもので、春満が研究すると共に以降も多くの考察があるものです。

 

荷田家和歌会

享保十八年三月、再興された荷田家和歌会に「春栖(はるすみ)として出席した記録があります。その後、享保二十年には百人一首の講義代行をするほどになりました。

 

詠歌の万葉仮名書き

春満の学問は「万葉集を研究し味読するには、万葉の世界に直に分け入り、万葉風の歌を詠み、万葉風の書き方をして万葉人になりきろう」とし、真淵等はそれを実践しました。

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潮曇り 入江の暮に 鳴く声を
聞くは千鳥の 見らく少なき

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2022/05/10 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第12回】ふるさと浜松

実父政信の死

享保十七年(一七三二)、真淵三十六歳の五月実父岡部政信が七十九歳で亡くなりました。
政信は、農事などに忙しいながらも杉浦家和歌会に出るなど風雅を好む人でした。詠歌二首

ながれ出ぬ里の小川も氷とく初春風を水上にして

夢さめて昔覚ゆる手枕にあやしく匂ふ風のたち花

加えて、勤勉努力家であったようで、本家の二郎左衛門家の三百両の借金を、甥の政長と力を合わせ十二年かけてうめ、岡部家を復興させました。
政信のこのような頑張りが真淵の資質にも流れていたことでしょう。

 真淵は父の死を悲しんで詠いました。

浪の上を こぎ行く舟の跡もなき 人を見ぬめの うらぞ悲しき

あらえあへの衣の袖に玉はやすむこの浦なみかけぬまぞなき

 

真淵の出郷

 

享保十八年真淵三十七歳、梅谷本陣の帳場をすてて、京伏見の荷田春満の許に行きました。真淵出郷した事情が書かれています。 『初め翁は京師に出たいと密に父に問うが受けず、家事遁れがたく嘆息して患ふ。妻その意を察知し、患ふことなかれ,妾よく家を護り、万事務めん。君不凡の才あり。家を出て志を遂げ名を天下に顕はし給へ。これ妾が希ふところ』 こうして、万事を託して家を出て志を立ったとされています。
その後、真淵と梅谷家の関係は微妙となったようで、四十四歳帰省の際は梅谷家に寄らず伊場の実家に帰りました。梅谷の妻は悲しい女で、父と夫との間で身を粉にして励んだが真淵に看取られることなく四十五歳くらいで亡くなりました。母の苦難を身近に知る嫡男真滋は、“名声院超弌(ちょういつ)清寿大師”の墓を教興寺に建てました。

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2022/03/22 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第11回】梅谷(うめや)家に養子

浜松本陣梅谷甚三郎方良(まさよし)の女(むすめ)と結婚

最愛の妻 政長の女に先立たれた翌年享保十年(一七二五)二十九歳の時、真淵は梅谷家に養子に入りました。梅谷方良の女の前夫は、真淵の母の実家の人だったようで、その後釜として急がれ、真淵の意向にはお構いなかったでしょう。女の名は、いそ、おやう、梅子と諸説あります。
二年後真淵三十一歳の年に真滋(ましげ)が生まれました。真滋は、本陣を継ぎ梅谷市左衛門を名乗っています。
本陣の主人として帳場格子の中の帳付けや、出立の客に揉み手の挨拶もあったでしょう。しかし、浜松宿の繁華街で多くの人に接し、本陣に泊まる地位・教養の高い人たちの豊富な話題、諸国の情報を得て真淵も大いに啓発されたことでしょう。
忙しい毎日だったが、真淵は歌会にも出て歌の勉強を続けていました。佐鳴湖畔臨江寺の雅遊(会報第五号)に出たり、三十四歳の十二月には、伝馬町教興寺で、安芸広島生まれの歌僧似雲と和歌を詠み交わしています。

 

   早梅の枝につけて   春梄
色も香もしるべ待えて梅ノ花春のこなたに先や咲らむ


 

浜松宿(しゅく)の本陣と梅谷(うめや)家

東海道の宿場の設置は、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)でした。浜松宿には本陣が6軒あり、大名や幕府の役人、勅使等が宿泊しました。原則として、一般の人の宿泊は許されず、伝馬町に3軒、旅籠町に2軒、連尺町に1軒ありました。
本陣6軒は東海道筋では箱根と浜松だけでした。本陣は門構えで玄関があり、部屋には「上段の間」があり、建坪は200坪以上もある広壮な建物だったようです。真淵が婿入りした梅谷家は、伝馬町の杉浦家に次ぐ歴史と格式でした。

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2022/01/06 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第10回】真淵の師たち

五社神社神主 森暉昌(てるまさ)

荷田春満の門人で杉浦国頭と親しく若年の真淵の師です。杉浦家の和歌会にも出席、古学の隆盛に力を尽くし、真淵の父政信とも親交があり真淵に大きな影響を与えました。国頭と共に社殿修造に苦心し、六十歳の延享二年(一七四五)に古式にのっとり遷宮しました。真淵は「遠江の国浜松の郷五社遷宮祝詞」を書いています。後に、真淵は次女繁子の請により暉昌の功業を、“光海霊神(うなてりのみたま)”碑文を五七七・五七七の旋頭歌”で書き「とほつあふみうなびてらしてよれるしら玉遠き世に名をかがさんとよれるしらたま」と結び、真淵の真情を吐露しました。光海霊神は暉昌の諡号です。次女森繁子は真淵の門人となり「玉かしは」などの歌集があり名高い女流歌人です。
この碑は五社神社社務所前にあり、明和四年(一七六七)真淵七十一歳の五月に建立されました。
昭和二十年六月の戦火により上部損壊したと傍らの案内標にあります。

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柳瀬方塾(やなせみちいえ)

浜松神明町、一六八五年生まれで、和歌に志し京都に遊学、尋郭公の題の和歌
泊瀬路やはつ音聞かまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす
が有名になり、隠口(こもりく)翁と呼ばれました。江戸に出て、多くの弟子をとり権門の詠草にも点を加えたが、翌年五十六歳で病死、若き真淵の詠歌に大きな影響を与えました。

 

渡辺蒙庵

真淵より十歳年上の一六八七年浜松生まれで医者であり漢学者。若くして京坂に出、医者になるために中国医術を学び更に漢学を学びました。浜松藩主の典医・侍講となり塾を開きました。真淵は、蒙庵に学んだことにより漢学の素養を自ら認めています。なお、蒙庵の屋敷跡はホテル「米久」になっています。

 

荷田春満に会う

享保七年四月、真淵二十六歳のとき杉浦家歌会で春満五十四歳に会いました。春満は江戸の門人たちの願いで三度目の下向をし、途中浜松に二か月の長逗留をしました。杉浦家和歌会にも五回出席和歌六首を詠んでいます。

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2021/12/20 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第9回】杉浦家和歌会

真淵を育てた杉浦家和歌会

真淵の国学の特色は、その歌文的性格にあると言われています。真淵自身の素質、好みによることは確かでしょうが、若き日の真淵をはぐくみ、育てた遠江の文化環境に、杉浦国頭や真崎たちが中心となった杉浦家の歌会がありました。真淵が出席した享保六年(真淵二十五歳)頃は月並歌会でした。

享保七年正月、国頭の邸に国頭夫妻を中心に二十三人が集まり和歌会を開いています。参加者の身分は多様で、五社神社の森暉昌(てるまさ)、蒲神明宮の蒲清兼ら神官仲間、教興寺の上人其阿(しょうにんごあ)ら、医師の服部保庵ら、町人の穂積通泰ら、女性の柳瀬理津らが入っています。
中でも歌論書『秋夜随筆』の柳瀬方塾(まさいえ)や漢学者渡辺蒙庵や叔父服部保庵が入っていて、真淵は方塾から和歌革新の心を、保庵・蒙庵から老荘思想・古文辞学の影響を大きく受けました。

「和歌会定」には 「その家のわざにおこたる事なく、その身のつとめわするゝ事あらずして」と明記されています。
和歌会は、杉浦家だけでなく享保七年八月には【政藤家】でも行われました。
吟行にも出かけ、享保九年二月には万斛村甘露寺の梅見の会、四月神立社(蒲神明宮)でも真淵は詠みました。
 

歌会での真淵

真淵は、この和歌会の三年間で一三一首詠んでいます。政藤の名で一〇一首、政成で二七首、他に成政で三首。また歌会には役割があるが、真淵も講師四回、読師二回、雑掌一回、雑餉二回つとめています。このようにして、真淵の歌才は、人々に認められ重んじられていました。

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2021/12/01 真淵を知ろう   bestscore