火災後8カ月足らずで、加藤枝直をはじめとする友人、門人の援助・協力により以前よりも立派な新居が出来ました。
伝えられる当時のあれこれを書く
火事と喧嘩は江戸の華
関ケ原の翌年(1601)~大政奉還の267年間に江戸の大火は49回、この間京都は9回、大坂は6回という。大火以外の火事を含めると、1601からの100年間が269回、次の100年間が541回、1801から1867年までが986回。当時の人口は1640年頃が40万、1693(元禄)80万、1721(享保)110万。
江戸時代の三大大火
明暦の大火(1657) 振袖大火 死者数107,000人 1月18日~19日の2日間、江戸の大半が被災、江戸城天守も焼失。
明和の大火(1772) 死者数14,700人 行方不明4,000人 目黒で出火南西風により延焼900町に及ぶ。
文化の大火(1816) 死者1200人 町数530 大名屋敷80 寺社80が焼失 他に1855年の安政の地震火事は死者4,500名以上。
出火原因としては放火が見逃せないという。
真淵の火災警戒と「万葉集遠江歌考」
真淵は、火災には警戒心を持っていたのでしょう、その副本を故郷の門人縁者に送っていたようです。遠江で詠まれた歌や、遠江出身の防人の歌、東歌など18首について考証注釈した真淵の万葉研究としては最も古い「万葉集遠江歌考」は、浜松宿の渡辺家(真淵の漢学の師渡辺蒙庵)に送られ同家に所蔵されていました。「真淵没後50年遠忌」の際、自分の家に真淵の自筆原稿があると披露され、高林方朗・石塚龍磨・夏目甕麿等により、真淵の貴重な労作と判り、甕麿が家産を傾けて出版したといわれています。
冬至梅宝暦評判記 真淵の市井における評価の高さを
各種の名物評判記は宝暦から文化の18世紀後半の50年間に多く、学問と文芸が盛んな時代でした。この「冬至梅宝暦評判記」は儒者から相撲取更に遊女にいたる25の諸芸から各2人を取り上げており、歌道の部では、岡部三四こと賀茂真淵と光明寺證道上人。真淵については、“歌道のたて物よいと申”に始まり、“当顔みせ後室万葉午前の役、冠字考を出されし所よいと申”そして、クスグリを書いて“しかしまづ類のない仕打、御てがら御てがら”と結んでいます。