名君・田安宗武②
父吉宗は、享保の治を進め幕府中興の英主、宗武の子 松平定信は寛政の改革を推進した青年宰相、宗武自身も英明で文武両道を兼備した立派な人でした。
書(ふみ)もよまであそびわたるは網の中にあつまる魚(いお)の楽しむがごと
(読書もしないで遊び続けるのは、ちょうど身の危険が迫るのも知らないで網の中に集まる魚が楽しんでいるようなものだ)と勧学の心を詠んだり
天地(あめつち)の恵にあるゝ人なれば天の命のまにまにをへや
(天地の恩恵によってこの世に生を受けた人だから、やはり天命のままに一生を終わりたいものだ)と詠み、その反面
ふたつなきふじの高根のあやしかも甲斐にも有(あり)とふ駿河にもありとふ
と、大らかなとぼけた奇抜な歌も詠み。さらに
酒のみて見ればこそあれ此夕(このゆうべ)往来(ゆきこ)ふ人は
(酒を飲みながら見ている分には風流なものだが、この夕方雪を踏み分けて行ったり来たり仕事をしている人は、そうはいかないだろう)。
思いやりのあり心の行き届いた人だったのだろうと評されています。
宗武のような身分の高い方が学問するには、優れた侍臣を召し、下問するのが一般的でした。和学については荷田在満が勤めていたが、在満が『大嘗会便蒙』を百部ほど摺ったことが公家に問題にされ閉門を仰せつかりました。更に、元文3年(1738)本会報29号で既述の「国歌八論」論争で、在満は文学の自律性を守り、『新古今』主義を変えず、真淵を後任として薦めて自らは身を退きました。真淵50歳の延享3年(1746)2月に宗武の和学御用を承り、御出入扶持(五人)を賜わりました。
田安家の和学御用を務めるようになっても、従前通り門弟をとることは許される程に好遇され、その間の多忙をなす事の多かる時はいとまある人ばかりこそうらやましけれと詠んでいます。
そして、出仕後5年目に御目見え十人扶持、更に翌年56歳の7月には、大番格奥勤を仰せつかり、十五人扶持を頂くようになりました。