賀茂神社境内の碑(1)縣居神社遺址
天保元年高林方朗縣居翁霊社建設の事を領主水野忠邦に上願し仝四年自筆の碑銘を賜ひ仝七年銀子十枚を下賜せらる茲に於て方朗仝志五名と共に百方尽力創めて此の地に縣居翁霊社を建設せり後明治十七年神社号を許可せられ仝四十年縣居遺蹟保存会成立大正七年翁 生誕の旧地後山に地をトして移転の計画を為し仝年十一月公許を得仝十三年十月廿八日移転す後昭和三年に至りて県社に昇格したり今や本社賀茂神社氏子有志相謀り一碑を建て其の遺蹟を後世に表さむとし沿革を徳川公爵に請ひ以て斯の碑を建つ焉
昭和九年九月七日
宗族子孫正五位勲六等岡部賀茂縣主譲謹識
于時歳八十有六
石工 松下萬吉刻
「鄙には稀」というべき巨石碑 高さ4m 幅2m 163㎝の台座
縣居国民学校6年の昭和19年12月7日、東南海地震の大きな揺れに恐れおののいた。翌日賀茂神社を遊び場にする連中の「神社の大きな石像がよくぞ倒れなかった」の話からこの石像を認識。高校時代、「公爵 徳川家達は徳川慶喜を継ぎ16代将軍になるべき人でイエサトと読むと知った。還暦を過ぎて、岡部家64代で井伊谷宮の宮司を兼ねる賀茂神社岡部和弘宮司からこの碑の裏に書かれる建設者岡部譲(岡部家61代)について教えをうけた。
岡部譲(ゆずる)(嘉永2年1849~昭和12年1937) 歌人としても有名
明治6年神社教法を上申、大教院編集に従事、明治7年井伊谷宮宮司、明治12年秋葉神社宮司を兼務。明治23年退職、翌年浅場村村長。明治26年奈良県大神神社宮司、明治27年伊勢神宮少宮司(注) 御園の復活、皇學館拡張,「古事類苑」の編集 内宮炎上の責任を感じて退官。明治32年多賀大社宮司、その後熱田神宮宮司、伏見稲荷大社宮司、大正11年退職。新居町に隠居。縣居神社の興隆に尽力。蔵書12,000冊を縣居神社内の縣居文庫に寄贈されたが戦災で焼失が悔やまれる。
(注)伊勢神宮大宮司は皇族関係者が就くので少宮司は民間人として最高の地位と思われる。