真淵の学問が、毎十代を区画として発展していることを指摘して『真淵は発展型の人間であった』と評されています。
1737 |
元文2年 |
41歳 |
江戸に出る |
1742 |
寛保2年 |
46歳 |
茅場町に新居 冬「遠江歌考」 |
1746 1747 |
延享3年 延享4年 |
50歳 51歳 |
茅場町の家大火により焼失。 同月 田安宗武に仕え「和学御用」を拝命 5人扶持を賜う |
1752 |
宝暦2年 |
56歳 |
15人扶持に加増 |
1754 |
宝暦4年 |
58歳 |
宗武40歳の賀に御衣を賜わる |
1755
|
宝暦5年 |
59歳
|
9月 自宅を古風に造り、「真木柱」を詠む この頃 長歌「うま酒」詠む |
1756 |
宝暦6年 |
60歳 |
「うらうら桜」を詠む |
1757 |
宝暦7年 |
61歳 |
「冠辞考」成る 「語意考」成稿か |
1760 |
宝暦10年 |
64歳 |
11月隠居 隠居料5人扶持 |
1763 |
宝暦13年 |
67歳 |
2月 大和への旅に 5月 松坂で本居宣長に会う |
・田安宗武に仕えて以降、主君宗武の「万葉」主義の影響を受けて真淵は、万葉研究を深めました。
・万葉研究者は、「宝暦3~4年が、真淵学における万葉主義形成の時期である」と考えられています。
・真淵は、栗田土満あての書簡で『古事記万葉集其他宣明祝詞をよく心得自己に古歌を書て後、其古言を知て紀をも調べしとおもう故に、真淵40年来此事に心を入漸六旬以後意を得たり』とあり、六旬は60年の意で、真淵は60歳ごろ学問の確立を意識したとされています。