古学へのゆるぎない決意
真淵は、59歳の宝暦5年(1755)、古代憧憬の気持ちから、
いでゐ(応接間のような部屋)を古風に造りその新築祝いの歌
“いでゐをいにしへざまにつくりけるからに、九月二六日、人々つどひてほぎ歌よみけるによめる。宝暦五年の秋なり。
飛騨たくみ ほめてつくれる 真木柱
たてし心は 動かざらまし
これは、けふつどへるはわが古の書の学びの道つたふる人々なれば、かくいへり”
門人を前に『万葉』研究の成果を踏まえ、真淵のゆるぎない決意、『万葉集』に回帰する「古ぶり」の志を高らかに詠いあげました。
『あの飛騨の大工が寿いで造り、真木柱を立てたように、古学に立てた心は動かないだろう』ということで、新築祝いの歌であり、建物がしっかり建ったことを詠っているが、真木柱建てしまでは序詞で、真木柱のように古学に立てた心は動かないだろうが真意であろうとされています。
なお、万葉集には、「飛騨匠」「真木柱」の歌が多く、飛騨匠の元祖とされる止利仏師、左甚五郎などが知られています。
国学の四大人と歌
幕末、平田派が国学の主流になり、国学四大人観が定まり、四大人肖像が描かれ、木版刷りが広まりました。
荷田春満 踏みわけよ 倭にはあらぬ 漢鳥(からとり)の
跡を見るのみ 人の道かは
賀茂真淵 飛騨たくみ ほめてつくれる 真木柱
たてし心は 動かざらまし
本居宣長 師木島(しきしま)の 倭心を 人とはば
朝日ににほふ 山櫻花
平田篤胤 雲となり あるは雨とも ふりしきて
神代の道に 身をやつくさむ