真淵は田安宗武に仕える 50歳
延享3年(1746)は、真淵にとって大きな転換の年でした。前述のように、2月に茅場町の居宅を火災焼失しましたが、同じ2月に「御出入扶持五人」の待遇で田安家に勤め始め、9月には『和学御用』を拝命し本格的に宗武に仕えました。この以前から、真淵は荷田在満を通して宗武と面識があり、宗武に頼まれ勧められてかなりの量の仕事をこなしていました。宗武のような身分の高い方の学問にはその方面に優れた侍臣を召し下問するのが常で、和学は荷田在満が勤めていたが、在満は先述した『国歌八論』論議のこともあり退き、真淵を推しました。
真淵武の信任が篤く、55歳で「十人扶持」に加増、更に56歳では「十五人扶持」を頂くようになり、そして、晴れがましいことには、真淵58歳の11月、宗武の四十歳の賀の宴で御衣を賜りました。
真淵は感動して、和歌を詠みました。
あふひてふ あやのみぞをも 氏人の
かづかんものと 神やしりかむ
『将軍家の御紋の葵という綾織の御服を、葵を神紋とする賀茂氏の流れを汲む私が肩にかけるとは賀茂大神も御存じあろうか、御存じあるまいと。』
家康に従って三方原で武功をたてた先祖に思いをはせ、自身は学問の道でこのような光栄に浴することができたことに感激したのです。
この間、真淵は宗武の知遇に応え、下問のままに『延喜式祝詞解』で、古語を釈には五十音韻を委くすべしとして古典を解くのに古語の解明、その原理が五十音図であるとしています。
そして『歌体約言』跋文、『古器考(古典籍の研究)』や『万葉新採百首解』『伊勢物語古意』『源氏物語新釈』などを次々にまとめました。