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立志の丘(6)「敬神は修養の基」碑 

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敬神は修養の基

東洋紡績濱松工場青年訓練所 
大正十五年七月一日 設立
工場長以下 四十一名を列記
建設 昭和五年十月三十日(真淵命日)

東洋紡績浜松工場は、現在の商工会議所・県居協働センターそして多くの住居群と隣接の野球場を含む5万坪に鋸屋根の工場棟や寄宿舎棟がありました。(社宅は現在の西部中学校の地) 
義務教育を修えた女子が主体の職場で働きながら学ぶ彼女たちは、灯籠坂を登り、縣居神社を拝し、遠州灘の白浪を望み、時には富士山をもとめて、ふるさとを語り成長していました。

 

浜松は繊維のまち

浜松は古くから、棉や藍の栽培と縞木綿が生産されていました。明治に入って、「遠州バタ」と言われる織機があり、明治30~40年には豊田佐吉や鈴木道雄の動力織機が普及しました。遠州の空っ風が浴衣の櫓干しに、天竜川の伏流水が染色に、と自然の恵みをたくさん受け、遠州織物は10%近くの全国シェアを誇っていました。

当時の人たちの手記

・敬神は修養の基 男性
昭和2年群馬県から16歳で電気部に配属。従業員は800名くらい。給料は82銭。工場内の訓練所で一般教養から作業技術等を広く学び、「敬神は…」碑の建設の一員。野球が盛んでユニフォームを整えた。日曜日には、バックネットのある東洋紡グランドは多くのチームで賑わった。

・初任給は35銭 女性
昭和5年~10年間勤務。従業員は1200名と聞いた。食費を含む寄宿費15銭、月の小遣い2円、親元へ3円を送った。昭和15年の紀元2600年奉祝には県代表として日比谷公会堂で踊った。

・戦前から水洗便所だった。
5時から14時、14時から23時の2交代勤務。この間に30分の食事休憩。隔週交代で、2~3時限の教育があった。

・姉妹6人が工場の世話になる
花嫁修業の数々を学び大助かり。割烹授業で学んだ料理を家でつくりハイカラだと喜ばれた。

2025/06/27 立志の丘   bestscore