春をまつ やどりは人に よる身にも
つもる年こそ おのが物なれ
この当時の真淵は、処士(時の支配者に仕えることもない民間人の意)生活を送っていました。
この歌は、“世の人ごとに四十二の歳は慎むべきという歳暮に
隅田川 人やりならぬ もろ舟も くれぬと急ぐ けふのとし波
に続いて詠っています。
真淵四十二歳。暮を急ぐ隅田川の舟は己が姿の象徴であり、「やどりは人による身」と、四十歳を過ぎて、他家に寄宿する身のつらさがにじみでています。
真淵は、神田明神に奉納する神楽図式の序を書いたり、荷田在満の「大嘗会便蒙」の浄書をしたりして生活していました。江戸に出て三年間に少なくとも五回は転居しました。その間、或は食客となり、同宿となり、家庭教師となるなどと辛酸な生活をしており、この世俗な苦労が真淵の詠歌に深みを加えたとされています。
真淵が転々とした止宿先は荷田家のゆかりの家が多かったが、後に縣門を支えた村田春海の父春道にも世話になりました。日本橋小舟町の乾鰯問屋の豪商で神道家です。真淵も春満から伝えられた「斉明紀童謡についての秘伝」を春道に伝えています。こうして教えを受けにくる人も増えてきました。
百人一首などの研究会に参加
○百人一首の講会
真淵四一歳の三月に江戸に出、四月には信名家でこの研究会に出席しています。その後、八月の「百人一首評会満也」まで続きました。真淵の「百人一首古説」はこの会の成果です。
○万葉集の講会
翌年の真淵四十二歳の八月から翌年の六月まで研究会に参加していました。後年の真淵の万葉研究の下地が養われたといわれています。
○源氏物語の講会
この会に参加すると共に、四十四歳の正月には歌会を開くようになりました。真淵の精進ぶりが認められたといえるでしょう。