和歌「年くれて」
四十一歳で江戸に出た真淵は、生活のためにいろいろな辛酸を嘗めてました。
寛保元年(一七四一)真淵四十五歳
年くれて 空には降らぬ 白雪の
しらずかしらに つもりそめぬる
白髪に生活の苦労が偲ばれるが、この歌が苦悩を感じさせないのは白(しら)雪のしらずとか、かしらとか、頭韻(注)をたのしむ心のゆとりがあるからだろうと評されています。
(注)頭韻=語句の初めに同じ音を持つ語を繰り返し用いる修辞法
他に、四十八歳のころの歌に
“都のかたへにすまへど、人なみなみなる身にしもあらねば、春をむかへる業とて、なにごとをも設ず。さるは門さしてなどもあらねば、のどやかにのみもあらず。……”として門松を立てたのだろう
年くれて 松をもたてぬ すみかには
おのづからなる 春やむかへむ
真淵は、充実した人々との交渉により、学問も磨かれ、いよいよ著述にとりかかります。
「万葉集遠江歌考」 真淵四十六歳の冬
この書の文末に、『此国の歌の万葉に入たるを書出してまいらせよとあるにまかせて 寛保二年冬東のみやこにてしるす 真淵著』とあり、田安宗武に差し出したのではなかろうかとされています。
万葉集の中で、遠江で詠まれた歌や遠江出身の防人の歌、東歌など十八首について考証注解しており、真淵の「万葉」研究としては最も早いものです。十八年後に真淵の代表的著作の『万葉考』が脱稿されます。
地元ゆかりの三首
・引馬野に にほふ榛原 入り乱り
衣にほはせ 旅のしるしに
・あら玉の伎俉(きべ)の林に汝(な)立てて
行きかつましじ 寝(い)を先立たね
・遠江 引佐細江の 澪標(みおつくし)
吾を頼めて あさましものを