真淵は、五十歳で田安宗武の和学御用に務めるが、その前、和歌の本質をめぐる和歌史上最大の理論的歌論書として評価が高い『国歌八論』論議に係わりました。
宗武は、歌論をまとめ父吉宗に奉ろうとしたとき、相談を受けたのは荷田在満でした。
在満は、有職故実の侍臣として仕えていたが、在満の叔父荷田春満が吉宗に仕えていたこともあって、歌論の識見もあろうと在満に下問があり、在満はやむなく国歌八論を奉りました。
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著者 |
相手 |
論 点 |
国歌八論 |
寛保2年8月 |
在満 |
宗武 |
和歌は非政治的なもので感動をそのまま詠う |
国歌八論 余言 |
同年9月 (1742) |
宗武 |
在満 |
人の心を和らげるのが歌の道」として再論を命ず 併せて真淵の意見を徴す |
国歌八論 余言拾遺 |
同年11月 |
真淵 |
宗武 |
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国歌論 臆説 |
延享元年(1744) |
真淵 |
宗武 |
心に感じたこと(喜び悲しみ)を素直に表すこと |
臆説剰言 |
同年8月 |
宗武 |
真淵 |
真淵説を批判 再批判を命ず |
国歌論 再論 |
同年 8月以降 |
在満 |
宗武 |
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歌 論 |
同年 |
宗武 |
在満 |
再論に反論 |
再奉答 金吾君書
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同年 10月
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真淵
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宗武
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わりなきねがい(理屈では割り切れない念)として人間の感性の重要さを示す |
歌体約言 |
延享3年9月1746 |
宗武 |
まとめとした。 跋を真淵が書いた。 |
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3者の異同はくっきりとし、一応の終止符を打ったが、その波紋はずっと後世にも及びました。 在満は文学の自律性を守り、『新古今』主義をついに変えず、宗武と対立し身を引き後任に真淵を推挙しました。 真淵は、宗武の知遇を得るとともに、宗武の古代主義・万葉主義の影響を深く受け、真淵の学問の樹立に大きく踏み出しました。 |