四十一歳三月江戸に出る
真淵の学問的成長は、杉浦国頭や森暉昌といった地元の人たちの学識を越すようになりました。
そして、養子先の梅谷家とは気まずいなかにも嗣子真滋が成長し、“家”への責任を果たしたことから、年老いた母のことは気になるが、江戸に出て古学の名を挙げようとしました。
○杉浦国頭、森暉昌等ゆかりの人たちの支援があった。
○将軍家にかかわりを持ちたい。三方原の戦いで大きな勲功を挙げた先祖のように、また吉宗将軍の幕臣だった師の荷田春満のように。
○江戸には知り合いがいる。郷里浜松の杉浦家和歌会に参加していた穂積通泰は、江戸に出て日本橋通新石町の名主(注)になって経済的に富み、風雅を好む人で親しかった。
(注)名主=江戸時代、住民の有力者中その地域の行政を任された代表者。西日本は庄屋。
○伏見で親しくし、今の荷田の学統をになう春満の弟荷田信名(のぶな)や春満の甥の在満(ありまろ)がいた。
真淵が江戸に発つ際の逸話「浜松市史」
真淵が江戸に発つに当り、吉田某に「きっと三間棒の肩輿に乗るほど出世してみせるぞ。もし、そうでなかったら二度と浜松には戻らない」と、強い決意を告げた。吉田某は「人生はそう甘くない。乗るどころか、三間棒の肩輿をかついで帰るようなはめにならないように」と諭されとある。
江戸に出た真淵は、まず荷田信名宅に落ち着き、在満と共に生活を始めました。その後、神田、上総、日本橋松島町さらに日本橋小舟町の海産問屋村田春道(村田春海の父)宅などと三年間に五回食客・同宿・家庭教師として転々としました。
こうした中で、二年目に縣門十二大家のひとりとされる小野古道が門人となり、四十六歳で茅場町に家を建てました。
人生四十歳、五十歳の時代、正にやらまいかと言えよう。