長谷川貞雄 正三位勲二等
1845(弘化2年)~1905(明治38年)
縣居神社裏山の3㍍余の石碑
長谷川貞雄は雄踏町宇布見の名門中村家に生まれ、15歳で父の生家である竜洋町川袋の長谷川家を継ぐ。長谷川家は、神官、酒造業、回船問屋等を手広く営む。貞雄は長じて国学を学ぶと共に歌人。
慶応4年、遠州報国隊に目付け兼使番として参加、戊辰戦争最後の函館の役で軍功をあげ兵部省に入る。その後は次々と地位をあげ明治22年海軍主計総監となる。明治24年勅選貴族院議員となる。
この頃より浜松に住み、遠州地方の諸団体の役員(30以上)を兼ね、公共事業にも尽力。西遠教育会総裁等の教育関係、芳川銀行頭取などを勤め、明治35年には浜松裁縫女学校(現学芸高校)を西遠銀行頭取の平野又十郎と共に利町に創立。 宮内省より弁天島の土地を賜ったことが現在の発展に連なったといえよう。 中区松城町の浜松開成誠高校(当初誠心高等女学校)は貞雄のご子息鐡雄の創設。
貞雄は賀茂真淵敬慕の念深く、東京品川区東海寺の真淵の墓所は、明治15 年東海道線の開通のため今の紅葉山に移転した。その主唱者が長谷川貞雄、大久保春野(磐田・見付の出、男爵陸軍大将)、賀茂水穂(宇布見の出、靖国神社宮司。真淵の後裔)等で、この墓所移転の際、貞雄は裸体となり霊骨を移行したという。
遠州報国隊
150年前の明治元年(1868)、有栖川宮熾仁親王東征の際、この地の神官を主とした306名が決起した。
貞雄等は、出陣の際、当時、賀茂神社にあった「縣居翁霊社」に参拝したと伝えられる。