後の岡部日記
真淵四十九歳、延享二年(一七四五)九月浜松に帰り「後の岡部日記」を著しています。
実母が一月二十三日になくなったが、知らせが届いたのが二月三日で、その知らせの文は、“はやく正月二十三日の朝くち、つねならずとてすこしふし給ひしに、やをらおきて手水めし、人々をよびて、一人をうしろにおきてかかへしめ、仏のかたにむきて、あみだほとけをとなへ給ふこゑ、二こゑ三ゑのうちにねむりたまへばすなはちたえ給ひぬる……”と詳しく述べていました。
真淵は、用事が忙しくてすぐには帰省できず、この三月に江戸で法華八講が催されることでその故実を詳しく調べることになり、“古き書ども取り出て、それに筆くはへなどして…夜昼暇なくて”正月が過ぎてしまった。去年の冬、存命中に帰省しなかったかと、股をつかみ、あしずり(じだんだをふむ)して泣くもあやなき(かいのないこと)わざかなと嘆いています。
九月十日に江戸を発ち帰浜、九月二十六日には五社の遷宮があり、十月十日には杉浦国満の家で歌を詠んでいます。
そして、真淵は「母の御墓にまかりまうしにまうでて、こころのうちに
なくなくも わかれしときを わかれにて
わかるゝおやの なきぞかなしき
とおもひつづけらる。いとしも悲しくえ立さるべからねば、やや久しくうづくまりをるを、日くれぬと従者のいふに、かへり見がちにてさりぬ」と哀愁の気に満ちていました。
母の墓は、岡部の家の近くで檀那寺の顕海寺(見海院)の山の上にあったが、今は縣居神社南斜面に移っています。
母の死をいたむ真淵の哀傷歌
今はとも 人を見はてぬ くやしさは
わが身のつひの 世にも忘れじ
顕海寺(見海院)