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真淵を知ろう【第20回】ふるさと浜松への旅

37歳~40歳の間上京、41歳からは江戸に出た。帰省の紀行文を紹介します。

「旅のなぐさ」

四十歳四月、京都から帰省の際の紀行文。“なぐさ”は、慰さめの意。

久しくもなりにたるにつけて、、都のたれかれいとむつまじくなりにたるにつけて、おもへども猶こひしきものは故郷にぞあなるで始まります。信名・在満など荷田家和歌会で同席した人、そしてやむごとなき御わたりとして、交際があった宮方とか堂上人と記しています。柳瀬方塾が大納言武者小路実蔭の門人であり、冷泉派の門人になったとも伝わり、真淵の学問の流れが想われるとされています。

「旅のなぐさ」は、名所旧跡の考証が主で、地名をきっかけに古典の知識を披瀝していて、真淵がどんな学問をしていたかを知るよい資料になっていると言われています。例えば、山科の御廟野では天智天皇の御陵にふれ、「紹運録」「日本紀」「万葉」が出、相坂山では「万葉」が出て峠の語源を述べ「貫之家集」「古今」を出し、蝉丸の社では「後撰」「宇治拾遺」「無名抄」「清正集」「小町家集」「素性集」が出、比叡山では「懐風藻」「古事記」が出るなどします。

 

「岡部日記」

元文五年、真淵四十四歳の閏七月八日江戸を発ち帰浜し、九月十七日に江戸に戻る旅の紀行文。

此の秋はいざなふ人さへあれば、いでや母をもをがみ、つま子はらからにもあはばやとて、後の七月八日つとめてたちいづと旅の目的を書いています。

土地を歴史と結び付けての旅であり、その学識の豊かさに驚かされると共に、土地への愛着の深さに心打たれると評されています。菊川では「太平記」をしのび、掛川の日坂では「枕草子」を思うように、遠江に入ると、いっそうきめ細かくなり、天の中川(天竜川)を渡り“暮れ過ぎる程岡部の家に着きました。中国の故事倚門之望のようにお母さんは門によりかかって待っていたと書いています。

写真の宇津ノ谷峠は、伊勢物語の業平朝臣東下りの「蔦の細道」の故事です。森暉昌の家で歌を詠んだり、杉浦国頭がこの夏に亡くなっているので妻真崎をお悔やみ訪問し、そして賀茂神社に詣でました。

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2023/01/17 真淵を知ろう   bestscore