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2021年12月

真淵を知ろう【第10回】真淵の師たち

五社神社神主 森暉昌(てるまさ)

荷田春満の門人で杉浦国頭と親しく若年の真淵の師です。杉浦家の和歌会にも出席、古学の隆盛に力を尽くし、真淵の父政信とも親交があり真淵に大きな影響を与えました。国頭と共に社殿修造に苦心し、六十歳の延享二年(一七四五)に古式にのっとり遷宮しました。真淵は「遠江の国浜松の郷五社遷宮祝詞」を書いています。後に、真淵は次女繁子の請により暉昌の功業を、“光海霊神(うなてりのみたま)”碑文を五七七・五七七の旋頭歌”で書き「とほつあふみうなびてらしてよれるしら玉遠き世に名をかがさんとよれるしらたま」と結び、真淵の真情を吐露しました。光海霊神は暉昌の諡号です。次女森繁子は真淵の門人となり「玉かしは」などの歌集があり名高い女流歌人です。
この碑は五社神社社務所前にあり、明和四年(一七六七)真淵七十一歳の五月に建立されました。
昭和二十年六月の戦火により上部損壊したと傍らの案内標にあります。

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柳瀬方塾(やなせみちいえ)

浜松神明町、一六八五年生まれで、和歌に志し京都に遊学、尋郭公の題の和歌
泊瀬路やはつ音聞かまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす
が有名になり、隠口(こもりく)翁と呼ばれました。江戸に出て、多くの弟子をとり権門の詠草にも点を加えたが、翌年五十六歳で病死、若き真淵の詠歌に大きな影響を与えました。

 

渡辺蒙庵

真淵より十歳年上の一六八七年浜松生まれで医者であり漢学者。若くして京坂に出、医者になるために中国医術を学び更に漢学を学びました。浜松藩主の典医・侍講となり塾を開きました。真淵は、蒙庵に学んだことにより漢学の素養を自ら認めています。なお、蒙庵の屋敷跡はホテル「米久」になっています。

 

荷田春満に会う

享保七年四月、真淵二十六歳のとき杉浦家歌会で春満五十四歳に会いました。春満は江戸の門人たちの願いで三度目の下向をし、途中浜松に二か月の長逗留をしました。杉浦家和歌会にも五回出席和歌六首を詠んでいます。

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2021/12/20 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第9回】杉浦家和歌会

真淵を育てた杉浦家和歌会

真淵の国学の特色は、その歌文的性格にあると言われています。真淵自身の素質、好みによることは確かでしょうが、若き日の真淵をはぐくみ、育てた遠江の文化環境に、杉浦国頭や真崎たちが中心となった杉浦家の歌会がありました。真淵が出席した享保六年(真淵二十五歳)頃は月並歌会でした。

享保七年正月、国頭の邸に国頭夫妻を中心に二十三人が集まり和歌会を開いています。参加者の身分は多様で、五社神社の森暉昌(てるまさ)、蒲神明宮の蒲清兼ら神官仲間、教興寺の上人其阿(しょうにんごあ)ら、医師の服部保庵ら、町人の穂積通泰ら、女性の柳瀬理津らが入っています。
中でも歌論書『秋夜随筆』の柳瀬方塾(まさいえ)や漢学者渡辺蒙庵や叔父服部保庵が入っていて、真淵は方塾から和歌革新の心を、保庵・蒙庵から老荘思想・古文辞学の影響を大きく受けました。

「和歌会定」には 「その家のわざにおこたる事なく、その身のつとめわするゝ事あらずして」と明記されています。
和歌会は、杉浦家だけでなく享保七年八月には【政藤家】でも行われました。
吟行にも出かけ、享保九年二月には万斛村甘露寺の梅見の会、四月神立社(蒲神明宮)でも真淵は詠みました。
 

歌会での真淵

真淵は、この和歌会の三年間で一三一首詠んでいます。政藤の名で一〇一首、政成で二七首、他に成政で三首。また歌会には役割があるが、真淵も講師四回、読師二回、雑掌一回、雑餉二回つとめています。このようにして、真淵の歌才は、人々に認められ重んじられていました。

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2021/12/01 真淵を知ろう   bestscore