五社神社神主 森暉昌(てるまさ)
荷田春満の門人で杉浦国頭と親しく若年の真淵の師です。杉浦家の和歌会にも出席、古学の隆盛に力を尽くし、真淵の父政信とも親交があり真淵に大きな影響を与えました。国頭と共に社殿修造に苦心し、六十歳の延享二年(一七四五)に古式にのっとり遷宮しました。真淵は「遠江の国浜松の郷五社遷宮祝詞」を書いています。後に、真淵は次女繁子の請により暉昌の功業を、“光海霊神(うなてりのみたま)”碑文を五七七・五七七の旋頭歌”で書き「とほつあふみうなびてらしてよれるしら玉遠き世に名をかがさんとよれるしらたま」と結び、真淵の真情を吐露しました。光海霊神は暉昌の諡号です。次女森繁子は真淵の門人となり「玉かしは」などの歌集があり名高い女流歌人です。
この碑は五社神社社務所前にあり、明和四年(一七六七)真淵七十一歳の五月に建立されました。
昭和二十年六月の戦火により上部損壊したと傍らの案内標にあります。
柳瀬方塾(やなせみちいえ)
浜松神明町、一六八五年生まれで、和歌に志し京都に遊学、尋郭公の題の和歌
泊瀬路やはつ音聞かまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす
が有名になり、隠口(こもりく)翁と呼ばれました。江戸に出て、多くの弟子をとり権門の詠草にも点を加えたが、翌年五十六歳で病死、若き真淵の詠歌に大きな影響を与えました。
渡辺蒙庵
真淵より十歳年上の一六八七年浜松生まれで医者であり漢学者。若くして京坂に出、医者になるために中国医術を学び更に漢学を学びました。浜松藩主の典医・侍講となり塾を開きました。真淵は、蒙庵に学んだことにより漢学の素養を自ら認めています。なお、蒙庵の屋敷跡はホテル「米久」になっています。
荷田春満に会う
享保七年四月、真淵二十六歳のとき杉浦家歌会で春満五十四歳に会いました。春満は江戸の門人たちの願いで三度目の下向をし、途中浜松に二か月の長逗留をしました。杉浦家和歌会にも五回出席和歌六首を詠んでいます。