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2021年09月

真淵を知ろう【第4回】真淵の幼少時代

父母の教え
寺田泰政著「賀茂真淵 生涯と業績」より

父政信は賀茂神社神官で四十四歳のときに真淵が生まれました。先妻との間の長男は早死し、後妻つまり真淵の母との間の次男もなくなり、二人の娘があるとは言え、やっと生まれた男の子でした。父は農業などに多忙な中、和歌をたしなむ教養のある人で、歌会で以下の歌を詠んでいます。

 

流れ出ぬ里の小川も氷とく初春風を水上にして
夢さめて昔覚ゆる手枕にあやしく匂ふ風のたち花

 

母は信心深く、神仏を尊ぶ、人を大事にし、貧乏な者をあわれみ、乞食には物を与えたりする思いやりのある人だったと、人々が言い合っていたと真淵は追想し「後の岡部日記」に書いています。
真淵は、もの心がつくようになると両親から和歌を教わりました。母の前で和歌を詠むと母が古歌の良さを指摘する、すると父親まで顔を出しました。しかも「万葉」などが話題になったと、真淵は後年「歌意考」で書いています。

 

自然に学ぶ
寺田泰政著 「明解 賀茂真淵」より

幼い真淵は、神社の杜から様々を学びました。樹々が季節によって移ろうことは日本文化の特色で、春、桜の花にまつわるメジロなど小鳥の姿も幼い心に深く焼き付いたことでしょう。真淵は、晩年

 

"世の人の花鳥にしも習ひせば昔に返る時もあらまし"
(世の中の人があの花や鳥を見習ったなら心素直な古代に返ることもあろうに)

 

と詠みました。幼児体験が甦ったものでしょう。

 

六十九歳の「国意考」では、

 

〝世の中の生くるものを、人のみ貴しとおもふはおろかなること也。天地の父母の目よりは人も獣も鳥も虫も同じこと成るべし〟

 

と、人も獣も鳥も虫も同じだと言い切っています。虫をハエやカのように追っ払ったり叩き殺す者の思想ではないでしょう。
真淵理解に欠かせない視点のひとつであり、現代に通用するものでありましょう。
 

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2021/09/23 真淵を知ろう   bestscore

真淵を知ろう【第3回】母方・天王の竹山家

竹山家と徳川家康
真淵の母の実家は、長上郡天王村の竹山孫左衛門茂家でした。
同家の初代は室町時代末期に始まる高森太郎左衛門重治とされ、現在は十六代を数える名流で、江戸時代には、伊場の岡部家と同様に独礼庄屋として地域のリーダーを勤めました。

天王村の屋敷は、年中鳥が集まるような大きな竹藪に囲まれ、徳川家康も鷹狩でこの邸に寄り、【竹山、竹山】と呼んだことから、高森姓を竹山姓に改めたとされています。

家康は、前庭の梅の木に鷹狩の鷹を止まらせ、この老梅は鷹宿梅(おうしゅくばい)として大切に育てられました。


鷹宿梅と真淵
竹山家には、「梅系図」と箱書きのある古い掛軸が伝来していて、白い花をつけた梅の古木の絵と、真淵の歌が書かれています。

 

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「かけまくもかしこき、下つ毛野の国ふたら山に鎮りませる大神の、むかし遠津淡海の国曳馬の城を敷ます時、御狩の折々、竹山が家の梅こそおもしろけれとて御馬寄させ給ひ、薫り栄ゆる枝に御鷹をすえ置かせまうして、御きゝこしをし、めでまししなり。
今ぞ百まりに多くの年を経ぬれど、その梅のしづ枝さし次て春の常盤ににほひ、此家も太くひろく栄へ伝れる事おのれしも母としのよすがもて、 辱 御故よしを 伝へうけたまはり、よろこほひて古き調をうたふ」

 

大君の みそてふれけん 梅かえの
今もかをるか あはれそのはな

 (大君の御袖触れけん梅が枝の今も薫るかあわれ其の花)

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2021/09/14 真淵を知ろう   bestscore