竹山家と徳川家康
真淵の母の実家は、長上郡天王村の竹山孫左衛門茂家でした。
同家の初代は室町時代末期に始まる高森太郎左衛門重治とされ、現在は十六代を数える名流で、江戸時代には、伊場の岡部家と同様に独礼庄屋として地域のリーダーを勤めました。
天王村の屋敷は、年中鳥が集まるような大きな竹藪に囲まれ、徳川家康も鷹狩でこの邸に寄り、【竹山、竹山】と呼んだことから、高森姓を竹山姓に改めたとされています。
家康は、前庭の梅の木に鷹狩の鷹を止まらせ、この老梅は鷹宿梅(おうしゅくばい)として大切に育てられました。
鷹宿梅と真淵
竹山家には、「梅系図」と箱書きのある古い掛軸が伝来していて、白い花をつけた梅の古木の絵と、真淵の歌が書かれています。
「かけまくもかしこき、下つ毛野の国ふたら山に鎮りませる大神の、むかし遠津淡海の国曳馬の城を敷ます時、御狩の折々、竹山が家の梅こそおもしろけれとて御馬寄させ給ひ、薫り栄ゆる枝に御鷹をすえ置かせまうして、御きゝこしをし、めでまししなり。
今ぞ百まりに多くの年を経ぬれど、その梅のしづ枝さし次て春の常盤ににほひ、此家も太くひろく栄へ伝れる事おのれしも母としのよすがもて、 辱 御故よしを 伝へうけたまはり、よろこほひて古き調をうたふ」
大君の みそてふれけん 梅かえの
今もかをるか あはれそのはな
(大君の御袖触れけん梅が枝の今も薫るかあわれ其の花)