父母の教え
寺田泰政著「賀茂真淵 生涯と業績」より
父政信は賀茂神社神官で四十四歳のときに真淵が生まれました。先妻との間の長男は早死し、後妻つまり真淵の母との間の次男もなくなり、二人の娘があるとは言え、やっと生まれた男の子でした。父は農業などに多忙な中、和歌をたしなむ教養のある人で、歌会で以下の歌を詠んでいます。
流れ出ぬ里の小川も氷とく初春風を水上にして
夢さめて昔覚ゆる手枕にあやしく匂ふ風のたち花
母は信心深く、神仏を尊ぶ、人を大事にし、貧乏な者をあわれみ、乞食には物を与えたりする思いやりのある人だったと、人々が言い合っていたと真淵は追想し「後の岡部日記」に書いています。
真淵は、もの心がつくようになると両親から和歌を教わりました。母の前で和歌を詠むと母が古歌の良さを指摘する、すると父親まで顔を出しました。しかも「万葉」などが話題になったと、真淵は後年「歌意考」で書いています。
自然に学ぶ
寺田泰政著 「明解 賀茂真淵」より
幼い真淵は、神社の杜から様々を学びました。樹々が季節によって移ろうことは日本文化の特色で、春、桜の花にまつわるメジロなど小鳥の姿も幼い心に深く焼き付いたことでしょう。真淵は、晩年
"世の人の花鳥にしも習ひせば昔に返る時もあらまし"
(世の中の人があの花や鳥を見習ったなら心素直な古代に返ることもあろうに)
と詠みました。幼児体験が甦ったものでしょう。
六十九歳の「国意考」では、
〝世の中の生くるものを、人のみ貴しとおもふはおろかなること也。天地の父母の目よりは人も獣も鳥も虫も同じこと成るべし〟
と、人も獣も鳥も虫も同じだと言い切っています。虫をハエやカのように追っ払ったり叩き殺す者の思想ではないでしょう。
真淵理解に欠かせない視点のひとつであり、現代に通用するものでありましょう。