荷田春満(かたのあずままろ)
真淵は37歳、春満を慕って上京しました。春満は漢学だけが盛んであった世の中を悲しんで、
踏みわけよ 倭(やまと)にはあらぬ 漢鳥(からとり)の
跡を見るのみ 人の道かは
と詠み国学を大事にしました。
春満は、京都伏見稲荷神社の神職羽倉信詮の次男。羽倉の称は、【往昔神鳥と化し、その鳥の羽を象り…】とあり、神鳥…は真淵の八咫烏(賀茂神社の祭神)と思い合わされます。
元禄13年(1700)江戸にて、武士たちに歌学や神道の教授を行いました。享保8年(1723)将軍吉宗に招かれ幕臣になり4年間仕え、享保13年著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を幕府に献じて、吉宗将軍に国学の学校建設の必要性を訴えました。同年家督を養子の荷田在満(ありまろ)に譲り元文元年67歳で死去しました。
伏見稲荷大社に隣接の東丸(あずままろ)神社
明治16年正四位の贈位を祝して創建。「学問向上」「受験合格」の神として尊崇される春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、古典・国史を通して古道の解明を試み、万葉集・日本書紀・古事記等の研究の基礎を築きました。
国学発祥の地
神田明神の境内にあります。春満が江戸に出て、初めて国学の教場を開いた場所です。碑は今東光の撰。一説では元禄赤穂事件は、春満と大石内蔵助が旧知の友人で、その情報により討入り決行日が決められたとされます。