三十七歳(享保一八年)から四十歳(元文元年)
京都伏見で学ぶ
この時期は真淵にとって、荷田家の人々との交わりを通じ、自分を鍛え、頭角を現わし荷田春満の期待に応えて春満の学問の大成にいそしんだ貴重な期間でした。
当時の春満は、七年ほど前から胸痛を煩い、三年前からは中風症にも罹り将軍吉宗から烏犀円(うさいえん)という名薬を下賜されるほどの病状でした。 春満は
春までの 命のほども しらぬ身に
うれしく雪の 花を見るかな
と詠んで真淵の遊学に期待を寄せたようです。
入門早々「斎明紀童謡」の秘伝を伝授される
斎明紀童謡とは日本書紀斎明天皇の条に出る随一の難訓歌とされるもので、春満が研究すると共に以降も多くの考察があるものです。
荷田家和歌会
享保十八年三月、再興された荷田家和歌会に「春栖(はるすみ)として出席した記録があります。その後、享保二十年には百人一首の講義代行をするほどになりました。
詠歌の万葉仮名書き
春満の学問は「万葉集を研究し味読するには、万葉の世界に直に分け入り、万葉風の歌を詠み、万葉風の書き方をして万葉人になりきろう」とし、真淵等はそれを実践しました。
潮曇り 入江の暮に 鳴く声を
聞くは千鳥の 見らく少なき