実父政信の死
享保十七年(一七三二)、真淵三十六歳の五月実父岡部政信が七十九歳で亡くなりました。
政信は、農事などに忙しいながらも杉浦家和歌会に出るなど風雅を好む人でした。詠歌二首
ながれ出ぬ里の小川も氷とく初春風を水上にして
夢さめて昔覚ゆる手枕にあやしく匂ふ風のたち花
加えて、勤勉努力家であったようで、本家の二郎左衛門家の三百両の借金を、甥の政長と力を合わせ十二年かけてうめ、岡部家を復興させました。
政信のこのような頑張りが真淵の資質にも流れていたことでしょう。
真淵は父の死を悲しんで詠いました。
浪の上を こぎ行く舟の跡もなき 人を見ぬめの うらぞ悲しき
あらえあへの衣の袖に玉はやすむこの浦なみかけぬまぞなき
真淵の出郷
享保十八年真淵三十七歳、梅谷本陣の帳場をすてて、京伏見の荷田春満の許に行きました。真淵出郷した事情が書かれています。 『初め翁は京師に出たいと密に父に問うが受けず、家事遁れがたく嘆息して患ふ。妻その意を察知し、患ふことなかれ,妾よく家を護り、万事務めん。君不凡の才あり。家を出て志を遂げ名を天下に顕はし給へ。これ妾が希ふところ』 こうして、万事を託して家を出て志を立ったとされています。
その後、真淵と梅谷家の関係は微妙となったようで、四十四歳帰省の際は梅谷家に寄らず伊場の実家に帰りました。梅谷の妻は悲しい女で、父と夫との間で身を粉にして励んだが真淵に看取られることなく四十五歳くらいで亡くなりました。母の苦難を身近に知る嫡男真滋は、“名声院超弌(ちょういつ)清寿大師”の墓を教興寺に建てました。