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真淵を知ろう【第11回】梅谷(うめや)家に養子

浜松本陣梅谷甚三郎方良(まさよし)の女(むすめ)と結婚

最愛の妻 政長の女に先立たれた翌年享保十年(一七二五)二十九歳の時、真淵は梅谷家に養子に入りました。梅谷方良の女の前夫は、真淵の母の実家の人だったようで、その後釜として急がれ、真淵の意向にはお構いなかったでしょう。女の名は、いそ、おやう、梅子と諸説あります。
二年後真淵三十一歳の年に真滋(ましげ)が生まれました。真滋は、本陣を継ぎ梅谷市左衛門を名乗っています。
本陣の主人として帳場格子の中の帳付けや、出立の客に揉み手の挨拶もあったでしょう。しかし、浜松宿の繁華街で多くの人に接し、本陣に泊まる地位・教養の高い人たちの豊富な話題、諸国の情報を得て真淵も大いに啓発されたことでしょう。
忙しい毎日だったが、真淵は歌会にも出て歌の勉強を続けていました。佐鳴湖畔臨江寺の雅遊(会報第五号)に出たり、三十四歳の十二月には、伝馬町教興寺で、安芸広島生まれの歌僧似雲と和歌を詠み交わしています。

 

   早梅の枝につけて   春梄
色も香もしるべ待えて梅ノ花春のこなたに先や咲らむ


 

浜松宿(しゅく)の本陣と梅谷(うめや)家

東海道の宿場の設置は、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)でした。浜松宿には本陣が6軒あり、大名や幕府の役人、勅使等が宿泊しました。原則として、一般の人の宿泊は許されず、伝馬町に3軒、旅籠町に2軒、連尺町に1軒ありました。
本陣6軒は東海道筋では箱根と浜松だけでした。本陣は門構えで玄関があり、部屋には「上段の間」があり、建坪は200坪以上もある広壮な建物だったようです。真淵が婿入りした梅谷家は、伝馬町の杉浦家に次ぐ歴史と格式でした。

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2022/01/06   bestscore