真淵の家に沿って北へ上る坂道は木立が生い茂り昼も暗い急坂となります。
雨の日、風の日もなまけることなく勉学に励んだ真淵は、享保五年、二十四歳で「賀茂御神にねぎ奉る」という雨ごいの歌文を作りました。
日照りをかなしみ神に雨を願う歌文で、水不足から農民を救いたいと願う真淵の気持ちをおよそ九百字で表しています。
「賀茂御神(みかみ)にねぎ奉る」賀茂政躬
「山城の賀茂の神の由緒を讃え、代々の聖のみかども仰ぎ奉り給うとし、岡辺の里に移る賀茂神社の四季の恵を精細に綴る。このところの日照りを憂い秋の露霜も待たずに枝さへ枯れんとし、あはれみ給へ、恵み給へ、雨給へ、雫給へ」 とし、三首の反歌からなる。
夏の田をおひそふ雨はつれなくて
待に日数のふるぞあやなき
めぐみある露さへ置かば岡の辺の
小山にてる日にしをるとも何
うきふしはなほ諸人もなよ竹や
すなほなる代を神にまかせて