杉浦雅子(雅名真崎(まさき)
11歳になった真淵は、諏訪神社の神職杉浦国頭(くにあきら)の妻・雅子について手習いを始めました。雅子は、「国学の四大人」で、真淵の師である荷田春満(かだのあずままろ)の姪にあたります。
春満は、伏見稲荷神社の神職の子で幕府の下問に応じ、しばしば江戸に出、国学の創始者として名を挙げていました。春満の江戸神田での歌会に入門したのが、二十六歳の杉浦国頭で諏訪神社社殿の修理を幕府に願い出るために江戸に来ていました。春満は、神道家として立派な国頭を気に入り、妹の娘雅子を15歳のときに嫁がせたのです。
雅子は詠歌に秀で和学の素養もあり、挙措優雅な美しい人でした。真淵を導いたのは十八歳のとき、二十七歳で雅名を真崎としました。名字の杉浦を音だけ漢文風にとると浦ヲ過ギルと岬になるの意で“真崎”とし、婚家との一体感を示したとされています。言葉によって自分の生き方を示す仕方は真淵に大きな影響を与えました。
真崎の詠草と真淵の添削
杉浦国頭(くにあきら)
真淵は勉強が進むと真崎の夫国頭にも詠歌・古典を学ぶようになり、国頭が主宰する和歌会などに参加するようになりました。
浜松諏訪神社の神職のかたわら、浜松の郷土の歴史や名勝、風俗,史話、伝承などを、旧家を訪ね古老たちの口碑を丹念に取材して36歳のとき「曳馬拾遺(ひくましゅうい)」を著しています。
そして、さまざまな文献の研究から浜名湖周辺の文学地誌として「振袖考記(ふりそでこうき)」を出しています.。平安、鎌倉、室町、江戸各時代の地誌や紀行,歌集を集めていました。