真淵を知ろう【第30回】田安宗武に仕える(4)
延喜(えんぎ)式祝詞解 等の著述(上)
真淵は宗武の下問のままに『延喜式祝詞解』(50歳)・『歌体約言』跋文(50歳)・『古器考』(53歳)・『万葉新採用百首解』(56歳)・『伊勢物語古意』(57歳)『源氏物語新釈』(62歳)などを次々にまとめました。
延喜式は、平安時代の法令集で全50巻。醍醐天皇の命により905年に編集に着手、927年に完成しました。
『延喜式祝詞解』5巻は、延亮3年(1746)真淵50歳の9月に完成しました。その序にあるように、靱負(ゆきへ)君(宗武)の命によるものでした。
【祈年祭(としごひのまつり)】とか【春日祭】等の祝詞の注解をしたもので、祝詞は、体言や語幹などを大きな漢字で表し語尾や助詞・助動詞は小さな漢字で右側に寄せて万葉仮名書きしています。この序文を真淵が書いていますが、田安家和学御用という輝かしい任務を遂行しようとする張り詰めた気持ちが行間にあふれています。とともに、真淵は「祝詞」を読むだけでなく、「祝詞」を書く力も示そうとしています。真淵は、「祝詞」を古代を知るもののためという内容的にとらえるだけでなしに、「祝詞」を古い文体の見本として、文章史上の関心でもとらえていました。
序の次の付記では、“余が先師荷田大人は国朝の学の大家”だが、“学は天下の学、区々として家伝を唱る事は為ならず”と真淵は自己の学説の自立を宣言しており、事実、「祝詞」の研究は真淵をもって始めとされています。
真淵は、「古史を引に古事記を先とし、日本紀を次とす。古事記は上古質直の国史なり。上古の風を見、古語を知、古文を察するに及もの無ればなり」とし、荷田春満的神学から脱することになり、更には、杉浦国頭が「書紀」を遠州一円の神官に講じ、同信的結合のきずなとしている杉浦家の学門からも離れるようになりました。