例大祭が斎行されました
賀茂真賀茂真淵翁の命日に当たる十月三十日に縣居神社にて「例大祭」が齋行されました。
真淵にゆかりのある方々が参列する中、御扉が開かれ厳かに神事が営まれました。
顕彰会からは川島順三顧問をはじめ六名が参列しました。
賀茂真賀茂真淵翁の命日に当たる十月三十日に縣居神社にて「例大祭」が齋行されました。
真淵にゆかりのある方々が参列する中、御扉が開かれ厳かに神事が営まれました。
顕彰会からは川島順三顧問をはじめ六名が参列しました。
縣居神社拝殿にて宮司が祝詞を奏上され、願いが叶うように祈願しました。
また、賀茂真淵記念館をお借りして、昨年に引き続き桶ケ谷沼ビジターセンター館長 細田昭博氏による講演が行われました。
蝶や蜻蛉、蟋蟀の話や、竹とんぼ作りなど、子どもたちにも楽しい七夕になりました。
賀茂真淵翁遺徳顕彰会では会報を不定期で発行しております。
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縣居神社にて賀茂真淵翁生誕祭が斎行されました。
2017年3月4日土曜日に賀茂真淵翁の生誕320年を記念した生誕祭が縣居神社にて開催されました。
当日は大勢の方にご参加いただき、賀茂真淵の偉業を称えの遺徳を偲びました。
縣居神社での神事の後、「生誕祭」記念講演として賀茂真淵記念館にて山下智之会長による講演が行われ、真淵の万葉集研究から、浜松市歌にまでに渡るとても興味深いお話を頂きました。
当日の様子は第一テレビ様、SBS新聞社様に取材いただきました。 もっと沢山の方に真淵翁が説いた日本人の『明かき、浄(きよ)き、直き心』をに伝え継いでいけるようこれからも活動して参ります。
吉田館長から以下の内容をお話していただきました。
「大日本天下四海画図」は、宣長少年時代の力作、縦1.5×横2mの日本地図。
宝暦元年(1751)12月上旬に完成した。
識語に、今出回っている地図はことごとく在所が相違している、つまり間違っていると言い、「予今この絵図をなすに」と地図製作の決意を高らかに宣言している。
でも、自宅、奥座敷の畳の上での作業。しかもまだ17歳。見たことがあるのは、江戸、今日、大和と伊勢のごく一部。きっと種本がいくつかあったはずだ。
それにしても、それらをこの大画面にまとめる力は、やはりたいしたものである。
二階の床には、師賀茂真淵の忌日になると、「縣居大人之霊位」と自分で書いた軸をかけ厳しかった亡き師をしのんだと伝えられている。
読みは「あがたいうしのれいい」。
宣長自書。県居は賀茂真淵の号。大人は先生の意味。
「あがたいのうし」と訓むことは『玉勝間』巻6「県居大人の伝」で、本文中に「あがたゐの大人」とあり、同巻1「あがたゐのうしは古へ学びの親なる事」では、やはり本文中の「県居大人」に「ノ」の字を傍らに添えていることから明らか。
本居宣長旧宅は、宣長12歳から72歳で没するまで60年間にわたって暮らした家。
建物は元禄4年(1691)に松坂職人町に建てられた。その後、魚町に移築された。
宣長当時の所在地は「魚町」。明治42年、保存のために松坂城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開されている。
この建物の二階の書斎を「鈴屋」と呼ぶ。
宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」また講釈や歌会に使用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」など一階の各部屋と今回特別公開中の、二階「鈴屋」も見学することができた。
桶狭間古戦場公園一帯は、桶狭間の戦いの中心地であり、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地と言われている。
地元では田楽坪とも呼び、今は合戦当時の地形、城、砦などをジオラマ化され、戦いに至る各軍の進軍ルートが石板により明示されている。
中央には織田信長と今川義元の銅像を配した桶狭間古戦場公園となっている。
他に、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑、合戦の解説板などがある。
「戦評の松」の初代の松は、樹齢400年を超え、直径1m以上あるすばらしい松だったが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で枯れてしまった。
義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊隊は、この大松の下で軍議を開いたといわれ、「戦評の松」と言われる。
今の松は3代目にあたり、他に敷地内には、明治以降、御料地の払い下げを受けて、農地を開墾した記念の碑がある。