「大日本天下四海画図」
吉田館長から以下の内容をお話していただきました。
「大日本天下四海画図」は、宣長少年時代の力作、縦1.5×横2mの日本地図。
宝暦元年(1751)12月上旬に完成した。
識語に、今出回っている地図はことごとく在所が相違している、つまり間違っていると言い、「予今この絵図をなすに」と地図製作の決意を高らかに宣言している。
でも、自宅、奥座敷の畳の上での作業。しかもまだ17歳。見たことがあるのは、江戸、今日、大和と伊勢のごく一部。きっと種本がいくつかあったはずだ。
それにしても、それらをこの大画面にまとめる力は、やはりたいしたものである。
「縣居大人之霊位」
二階の床には、師賀茂真淵の忌日になると、「縣居大人之霊位」と自分で書いた軸をかけ厳しかった亡き師をしのんだと伝えられている。
読みは「あがたいうしのれいい」。
宣長自書。県居は賀茂真淵の号。大人は先生の意味。
「あがたいのうし」と訓むことは『玉勝間』巻6「県居大人の伝」で、本文中に「あがたゐの大人」とあり、同巻1「あがたゐのうしは古へ学びの親なる事」では、やはり本文中の「県居大人」に「ノ」の字を傍らに添えていることから明らか。
「鈴屋」
本居宣長旧宅は、宣長12歳から72歳で没するまで60年間にわたって暮らした家。
建物は元禄4年(1691)に松坂職人町に建てられた。その後、魚町に移築された。
宣長当時の所在地は「魚町」。明治42年、保存のために松坂城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開されている。
この建物の二階の書斎を「鈴屋」と呼ぶ。
宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」また講釈や歌会に使用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」など一階の各部屋と今回特別公開中の、二階「鈴屋」も見学することができた。
「桶狭間古戦場・戦評の松」
桶狭間古戦場公園一帯は、桶狭間の戦いの中心地であり、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地と言われている。
地元では田楽坪とも呼び、今は合戦当時の地形、城、砦などをジオラマ化され、戦いに至る各軍の進軍ルートが石板により明示されている。
中央には織田信長と今川義元の銅像を配した桶狭間古戦場公園となっている。
他に、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑、合戦の解説板などがある。
「戦評の松」の初代の松は、樹齢400年を超え、直径1m以上あるすばらしい松だったが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で枯れてしまった。
義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊隊は、この大松の下で軍議を開いたといわれ、「戦評の松」と言われる。
今の松は3代目にあたり、他に敷地内には、明治以降、御料地の払い下げを受けて、農地を開墾した記念の碑がある。