賀茂真淵とは賀茂真淵とは

年号 西暦 年齢
(数え)
略歴
元禄10年 1697 1歳 3月4日、遠江敷智郡伊場村(現浜松市中区東伊場)に生まれる。父は岡部政信、母は竹山氏女。初名は三四(そうし)。
15年 1702 6歳 このころ、義兄岡部政盛の養子になるが、ほどなく生家にもどる。
宝永4年 1707 11歳 2月、杉浦国頭の妻、雅子(のち真崎。荷田春満の義弟信元の女)から手習いを受ける。
享保5年 1720 24歳 「賀茂奥御神に祈ぎ奉る」を奉納。(政躬)
7年 1722 26歳 4月、春満江戸へ下向。浜松に逗留し、国頭家の歌会で真淵は春満に会う。
8年 1723 27歳 11月、岡部政長の養子となり、その女(むすめ)と結婚。渡辺蒙庵に漢学を習う。
9年 1724 28歳 9月、妻(政長の女)に死別。実家に戻る。
10年 1725 29歳 父母の命により。梅谷方良の養子となり、その女と結婚。
12年 1727 31歳 このころ上京し、春満に入門か?
17年 1732 36歳 閏5月、父政信死去。
18年 1733 37歳 このころ本格的に上京か?
3月、春満家の月並歌会に参加。春栖・真淵の名を用いる。
11月以後、浜松に帰省。
20年 1735 39歳 4月、春満家で『百人一首』を講ず。(鴨淵満)
12月に浜松で「歳晩歌」を詠む。
元文元年 1736 40歳 4月、浜松に帰省し、紀行文『旅のなぐさ』草す。
10月、方塾亭の春満追悼の歌会に参加。
2年 1737 41歳 3月、初めて江戸の土を踏み、荷田信名のもとに身を寄せる。
信名の紹介で、荷田在満と会い、『令』の講義を聞く。
7月末、信名の紹介で神田明神の神主芝崎好高のもとへ転居する。
11月、信名の紹介で根本治胤のもとへ転居。
3年 1738 42歳 6月、村田春道の家に寓居する。
4年 1739 43歳 11月、在満『大嘗会便蒙』の坂下を浄書。
5年 1740 44歳 閏7月、浜松に帰省し、紀行文『岡部日記』を書く。
寛保2年 1742 46歳 このころ、北八丁堀に加藤枝直の地所を借りて、一家を構える。
9月から枝直、青木昆陽と『令義解』会をはじめる。
3年 1743 47歳 『百人一首古説』奉る。
延享元年 1744 48歳 6月、田安宗武に「国家論臆説」奉る。
2年 1745 49歳 正月、実母死去。
9月、帰省して紀行文『後の岡部日記』を書く。
3年 1746 50歳 2月、宗武に田安家和学御用として出仕する。
9月、宗武に『延喜式祝詞解』5巻を献上する。
寛延2年 1749 53歳 正月、宗武に『古器考』を献上する。
3月、『万葉解』成る。
宝暦元年 1751 55歳 7月、宗武より十人扶持を賜う。
2年 1752 56歳 7月、宗武より十五人扶持を賜う。
『万葉新採百首解』成る。
3年 1753 57歳 『伊勢物語古意(清書本)』成る。
4年 1754 58歳 11月、宗武40歳の賀に御衣を賜う。
5年 1755 59歳 9月、自宅に古風な居間を作る。
7年 1757 61歳 6月、『冠辞考』成る。
8年 1758 62歳 4月、『源氏物語新釈』成る。
9年 1759 63歳 正月、岡部政舎の女、島を養女にする。
5月、中根定雄を養子にする。
10年 1760 64歳 6月、『古冠考』成る。
10月、『万葉考』一・二・別記脱稿。
11月、隠退して著述に専念する。
12月、『大和物語直解』成る。
12年 1762 66歳 『文意考』成る。
13年 1763 67歳 2月、宗武の命により村田春郷、春海らと大和への旅に出る。
5月25日、伊勢の帰路、松坂で本居宣長と出会う。
9月、養女・島が病死する。東海寺妙解院へ埋葬する。
明和元年 1764 68歳 正月、本居宣長が入門する。
7月、住居を浜町に移し、県居を構える。
11月、『古今和歌集打聴』成る。
『歌意考』完成本成る。
2年 1765 69歳 7月、『邇飛麻那微』成る。
『宇比麻奈備』『国意考』『書意考』成る。
3年 1766 70歳 『万葉集竹取翁歌碑』成る。
5年 1768 72歳 『祝詞考』『万葉考』成る。
6年 1769 73歳 2月、『語意考』定稿。
10月30日死去。品川東海寺塔頭松林院後山に葬られる。